1975年9月14日
ウエストロード・ブルース・バンド
1975年9月15日
ジプシースネイク・ブルース・バンド
だててんりゅう
メリケンブーツ
Bird’s Eye View
あんぜんバンド
- POSTER&TEXT
-
◎1975年9月14日(sun),15日(mon)◎
田島ヶ原野外フリー・コンサート
(フェニックスvol.4)この年は、「田島ヶ原」史上最大規模の聴衆を集めた年だった。73年にスタートして3回目となり認知度も深まる中、出演者に安全バンド、四人囃子、頭脳警察というURCにとっての三大バンドもクレジットされて、通常1日限りの企画のところを2日間に渡って開いたのだから当然ではあるが、1日当たりの人数でも、例年に比べて2、3割多かったのは間違いない。
人数を毎回正確に数えていたわけではないが(柵も塀もなくどこからでも出入りできるフリー・コンサートゆえ、数えようもなかったわけだが)、毎年、会場を見渡せる明るい時間帯に、100人を数えて目でブロックを作り、「そのブロックが何個分」という形で大ざっぱに数えてはいた。
しかし人数がピークを迎え始める夕方以降は、客側のスペースに照明がなく、暗くなってしまって数えようもなかった。ともあれ毎回のべ1,000人以上には達し、この75年は2日でのべ2,500人ぐらいの規模になったと思う。2日連続の企画ということで、会場にテントを張ったりして泊り込んだ参加者も何組かいた。
この年の経費で最も大きかったのは(というか毎年そうだったが)電源車代で、16万円だった。会場には電源がなかったからこの支出は避けようがないものだった。電源車のリースをしていたのは、確か当時は「東京機材」という会社しかなく、毎年そこにお願いしていたのだが、1日で10万円のところ、企画の内容を説明してお願いして、こころよく2日で16万円に割り引いていただいた。
またこの年は、オフセット印刷でA全サイズのポスターが制作されている。URCの場合、ポスターといってもB4軽オフセットどまりだった70年代に、そんな「ぜいたく」ができたのはこの時だけであり、それはデザインも含め、大宮にあった岡田印刷の無償協力で実現したものだった。
県内の京浜東北線各駅やあちこちの店置きでまかれたチラシは1万枚で、これは通常の年の3倍近い枚数だった。駅頭でのチラシまきは、下校時間や通勤帰りの時間に合わせて連日行なわれたが、一応ロック・コンサートに来そうな人を選んでまくので、そうは枚数ははけない。
それに、選んだからといって必ず受け取ってくれるわけでもなく、駅でのチラシまきというのはなかなかストレスフルかつ効率の悪い宣伝方法だった。とはいえ、警官に追われる街頭でのポスター貼りより気楽ではあった(笑)。
ところで、実はその「三大バンド」の内、頭脳警察は当日ドタキャン、四人囃子も、四人囃子としては出演せず、「Bird’s Eye View」として、森園勝敏と岡井大二だけの参加となっている。
頭脳警察に関しては、少なくともマネージャーが当日会場に来てはいたので、キャンセルの理由がよくわからなかったため教えてもらおうと思い、マイクで「マネージャーのTさん、至急ステージ裏まで来てください」と何度もアナウンスしたことを覚えている。しかしTさんは現れなかったため、結局、暗闇の中、頭脳警察の登場を待ち望んで熱気あふれる多数の客に対し、説明できる理由も不明なままキャンセルになったことを伝えるという、これ以下はない不幸な役を管理人がやるハメになったのだった(涙)。
その時、ほとんどやけくそで「とにかく頭脳警察は出ません!」と言った(言い放った)ことを覚えている。しかし、罵声が飛び交い物を投げられるといった事態にはならず、「え〜っ・・・」という嘆息がしばし会場を覆って終わっただけだったことには救われた。
先日PANTAにその話をしたら「その言い方が返ってよかったんじゃないか」とホメられて、一瞬喜びそうになったが・・・元はと言えばアンタたちのせいでしょーが!(笑)
ともあれ、野外のフリー・コンサート、しかも夜、アルコールも回って、暴れやすい条件は全てそろっていたのに(笑)、あの時の聴衆の皆様のその寛容でピースフルな精神には、30年後となり誠に遅ればせながらも、ここに改めて深い敬意を表させていただきます。
それからマネージャーのTさん、そんな目には会わされましたが、別に全然恨んだりしてませんので、今度会った時には、色々と昔話を聞かせてくださいね。
なお頭脳警察のキャンセルのその理由については、いくつか説があるのだが、直前にドラマーが脱退して(またはクビになって)一時的に活動を休止した時期のようなので、それゆえのことだろうと思う。四人囃子のキャンセルの経緯については、繊細な部分もあるので、HISTORYのページに後日upする予定の「滝口修一インタヴュー」においてふれたいと思う。ちなみに「Bird’s Eye View」で15日に出演した森園勝敏は、14日のハルヲフォンのステージにも登場しているので、2日連続出演の大活躍だった。
2日連続出演ということでは、安全バンドは企画の段階でそのことが決まっており、また京都から来たメリケン・ブーツも、予定外の14日に飛び入りで参加して数曲演奏、2日とも出演している。なお前年(74年)に引き続いて15日に出演した「だててんりゅう」と、14日のトリを務めたウエストロード・ブルース・バンドも京都のバンドだから、75年は京都色の強い「田島ヶ原」だったともいえる。
写真をPhotoのメインのページにupしてあるバンドは、そちらにmemoとして紹介記事もupしてあるので、以下、それ以外のバンドについてここで紹介しておこう。うたち 和光大学を拠点としたバンドで、後に紀ノ国屋バンドを結成するハルトが在籍した。URCの中心スタッフの一人に和光大生がいてプッシュしていたこともあって、田島ヶ原には何度も出演している。ハルトの強烈なヴォーカルと、ハードなギターが聴きものだった。
カララ URCのスタッフの一人の推薦で出演した、地元のバンドだったと思うが、管理人は観ていなかったため記憶がない。
ベジタブル・アンサーURC の中心スタッフの一人がリーダーだったバンドで、コミカルな曲、ポップな曲からハード・ロック、ややプログレ的なナンバーまで、ユニークな佳曲が多くあった。78年の「田島ヶ原」のステージでは、日の丸を燃やそうとするなど過激?な面もあったが、ただし確かうまく燃えずに、焦げただけで終わった気がする(笑)翌年に、浦和の小さな会場を借りて、自らマンスリーで主催する「ベジタブル・サーカス」というイヴェントを1年間続け、地元のアマチュア・バンドの核となるような活動も展開した。
余談だが、「田島ヶ原」のステージで日の丸を燃やそうとしたバンドはもう一つあって、それは85年のREALなのだが、その時もまた日の丸はうまく燃えなかったのだった。国家権力の象徴たる日の丸はかように手ごわい・・・というより、要するに市販のものは、軒先に垂らしたりするわけだから、不燃性のものとして製造されているのでしょう。もし今後同様のパフォーマンスを狙っている不遜なバンドがいたら、そのへんは考慮に入れるべき・・・って、アドバイスしてどうする(笑)。
ホールド・アップ 安全バンドの正式メンバーとなる中村哲と共に「ダムハウス」で活動していたギタリスト、藤田義治が、ダムハウス解散後参加したグループ。やはり和光大を起点としたバンドで、キング・レコードから細野晴臣プロデュースで「島まで10マイル」というアルバムを78年にリリースしている。URCのコンサートには極めて珍しい、いわゆる「ティンパン・アレイ系」のサウンドだった。なお藤田義治は、翌76年の「田島ヶ原」では、安全バンドのサポート・メンバーとして出演している。
ハルヲフォン 彼らはこの75年から77年まで3回連続して出演している。この年は、近田春夫、高木英一、恒田義見にキャロン・ホーガン(女性vo.)という、ギターレスの変則4人編成だった特殊な時期のステージとなった。ただし、後半には森園勝敏が全面的に参加し、正規ヴァージョンでは小林克巳のギターが聴きものの「秘密のハイウェイ」も含め、ハルヲフォンのオリジナル5曲でギターを弾いている。
小林克巳が、翌76年、森園脱退直後の四人囃子をサポートしたことはよく知られているが、その前にそうした関係が二つのバンドの間にはあったわけである。
ウエストロード・ブルース・バンド 彼らは、この年だけでなく、73年、第1回の時のトリも務めており、「田島ヶ原」とは縁の深いバンドである。関東における、ライヴハウス的なスペースではない、よりオープンな場所でのステージとしては、その73年の「田島ヶ原」が最初だったのではないだろうか。まだ「知る人ぞ知る」存在であり、また出演が決まったのが遅かったため、告知のチラシに名前は載らなかったから、彼らめあての客は多くはなかったろう。
しかし彼らがその時引き起こした熱狂は、実に大きかった。初回の「田島ヶ原」ということで、機材など物理面は最も貧しく、集まった人数も多い方ではなかったが、熱気の「密度」ということでは、あの時が一番だったような気もする。
名前や人気が先にあるのではなく、よく知られていないバンドが、純粋にその演奏の力だけで聴き手を圧倒する、そうした瞬間に立ち会えることは、主催者としてかけがえのない、大きな喜びだった。そして75年ももちろん、彼らは1日目の最後を目一杯盛り上げてくれたのだった。
タージ・マハル旅行団 ここまでウエストロードがトリと書いてきたが、実際にはその後にタージ・マハル旅行団が登場している。彼らは第一回の73年からこの年まで、毎回イヴェントの最後に登場して、そのフリー・フォームなサウンドを田島ヶ原の暗闇に響かせた。「田島ヶ原」の企画は、浦和市が管理する公園を使用している関係で、タイム・テーブル的には夜9時で終わることになっていたが、機材面のトラブルやらなんやらで、予定通りに進行できたことは一度もなく、タージ・マハル旅行団のパフォーマンスがスタートするのが、いつもちょうど9時頃だった。
彼らの役割は、ハイになった田島ヶ原の空気を、イヴェントの終了〜日常への帰還に向けてクール・ダウンする、という所だろうか。言わば「逆トリップ」。
最寄り駅である浦和駅に戻るためのバスが10時にはなくなることもあり、帰り始める客も多い時間帯、彼らの音が出た時、スタッフはその年の「田島ヶ原」が無事終わりつつあることを実感して、やっと一息つけたのだった。
思えば「田島ヶ原」のコンサートで、ゆっくり演奏を聴くことができたのは、タージ・マハル旅行団だけだった気がする。客席側に入って寝転がり、夜空を見つめながら、彼らの浮遊するサウンドにしばし身をひたした時の解放感を、管理人はよく覚えている。