URC創設の中核となったのが蓮実研一氏だったことは間違いないが、もちろん、いかに蓮実氏といえども、駒場サッカー場でのコンサートを初めとするいくつものイヴェントを、一人で成しえたわけではない。

創立時の他の3人のメンバーも、それぞれに個性を発揮しつつ蓮実さんの発想の実現を支え、あるいは独自に活動を展開したと思われるが、蓮実氏の最も重要なパートナーであり、また蓮実氏離脱後のURCの中心人物となったのは、これもまた間違いなく、滝口修一だった。

安全バンドのマネージャーでもあった彼なくしては、71年夏の蓮実氏の活動停止でURCの歴史は終わり、URCも、当時雨後のタケノコのごとく各地に暫時存在したロック関係のサークルの単なる一つとして、終わっていただろう。


72年3月、彼は主に県内の高校に散在したロック好きに召集をかけ、「URC再建会議」のようなものを開く。これを書いている管理人も、ほかならぬその会議に顔を出した(うかつにも出してしまった/笑)時から、URCでの活動を開始することになる。

彼のリーダーシップのありようは、蓮実氏のスタイル〜極めて明晰な論理性とストイシズムを持ち、かつそれを自らの文章力や印刷技術を駆使しつつ緻密に実体化させていくスタイルとは、まったくもって対照的なものがあった。

こう書くと、彼のスタイルが、まるで論理的でなくルーズで緻密さもなかったように聞こえるが・・・実際そうなのだった(笑)。だが、蓮実氏のようにはとことん突き詰めることのない、そのある種のおおらかさのようなものが大きな包容力となって、72年以降という時代に、多くの人間をひきつけたのもまた事実である。

当時、カウンターorサブ・カルチャー系の有名無名の人物600人を集めた「ニッポン若者紳士録」(ブロンズ社刊)という本が出て、その中に彼は、矢沢永吉、川久保玲、PANTAなどとともに掲載されている。そんな彼が創り出す様々な分野での人間関係、人脈こそが、「その後」のURCの活動の土台となったのだった。


未発表のあるインタヴューで、PANTAが「ウラワ・ロックンロール・センターというと何を思い出しますか?」と聞かれて、即座にこう答えている。「そりゃもう滝口の顔だよ、あのヒゲ面のさぁ。ジェリー・ガルシアみたいな」・・・まさに彼は「顔」だった。このインタヴューのページで使用している写真はすべて74年前後のものだが、今見ると、ガルシアというより、どこぞやの教祖に似ている気がする・・・(笑)

さて、例によって前書きが長くなった。では本編へどうぞ・・・といっても、実は今回は、URCでの活動の話はほとんど出てこない。URCを設立する前の経緯、背景を語ってもらったところで、すでに1万字を越えてしまったためで、以後の話は後日の更新で何回かに分けてup、ということになる。この調子で行くと、最終的にはかなりのヴォリュームのインタヴューとなるのは必至である。

(高沢)

interview 2005.8.24

滝口修一

URC70年代の中心スタッフ(1970~)
&安全バンド マネージャー

インタヴュアー・高沢正樹

ロックとの出会い

—まずは、お決まりのロックとの出会いというやつを。蓮実さんの場合は、春日部高校の文化祭でアマチュア・バンドによって演奏されたローリング・ストーンズの「Get Off Of My Cloud」、という非常に明確かつ特異な(笑)ものだったわけですが。

 俺の場合はやっぱり最初はビートルズだよね、何の変哲もなく(笑)。その前は、姉が、シングル盤全部揃えてるような美空ひばりフリークだったから、美空ひばりの曲を日常的に耳にしてて、連れられて映画を何回も観に行ったりしてたけど、別にファンにはならなかった(笑)

 自分では、今でいういわゆるオールディーズものを聴くようになっていったね。ラジオでオリジナルを、テレビの「ザ・ヒット・パレード」で日本語ヴァージョンをって、同じ曲を両方聴く感じ。でも、プレスリーも含めて特定の誰かを好きになるっていうことはなくて、だからレコードは買わなかった。

—初めて買ったレコードは?

 牧伸二の「あぁやんなちゃった」(=やんなっちゃった節)だった(笑)。だけど、ビートルズはやっぱり何かが「来た」んだろうな、レコード続けて買ったからね。初めてLP盤買ったのもビートルズで、俺にとっては、そのころ出てた日本編集盤の「BEATLES NO.5」っていうのがビートルズなんだよ。あれは選曲が黒っぽくてよかった。

 エド・サリバン・ショーとかテレビの洋楽系も、欠かさず観てた。深夜だったけど、「愛こそはすべて」の衛星中継(67年)も観て、「これは凄いことに俺も参加している」って高揚感を覚えたり(笑)

—来日公演の時は・・・

 それがさ、チケットは人づてにうまく入手できたんだよ、昼の部のが。ところが、俺は高校1年だったわけだけど、その日が運悪く実力テストの日でさ、昼の部じゃ行けないわけだ。しょうがなくて人に譲ったんだよね。

 後でわかったんだけど、そのテスト、1年生は受けても受けなくても、どっちでもよかったんだよなぁ。もったいないことをした。

—そりゃ取り返しのつかないことを(笑)。ビートルズ以外では・・・

 高校入った時に、クラスでギター弾いてフォーク・ソングを歌うのがうまい奴がいたりしたんで、フォークも好きだった。特に森山良子が好きだったんだ。俺は彼女のコンサートへ行って、「コンサートへ行く」ということに目覚めるんだよ。でもフォークといっても、その後の和製フォークとは違うよ。オリジナルもやってたと思うけど、いわゆるトラディショナルというか、上品なやつで。だから聴くに耐えたわけ。

 「スチューデント・フェスティヴァル」っていって、森山良子のほかにもビリー・バンバン、ブロードサイド・フォーとか、町田義人がやってたキャッスル&ゲイツとか、当時すでにキラ星のごとくの人たちが出たコンサートにも何回か行ったんだけど、ある時、最後に主催者が出てきて挨拶するんだよ。

 新宿厚生年金会館で超満員だったんだけど、「始めた頃は10人、100人で、こんな立派なコンサートができるとは僕も思ってませんでした」みたいな話をして、何だか全然商業ベースじゃないわけ。でも出演者の顔ぶれは凄いわけで、その時に、アマチュアでも立派に一流の人たちを呼んでやれるんだなぁ、そういうのがあり得るんだ、と感じたのを覚えてる。

—自分でフォーク・グループは始めなかったんですか。

 フォークは、きれいに楽器弾けないとダメだからさ(笑)。だけど俺が入ってた写真部に、グループ・サウンズ系が何人かいたわけ、エレキ・ギターも持ってて。その連中と語らってバンドやるようになるんだけど、皆はギターうまいから、俺はアタマ打ちでベースぐらいだったらってことで、ベース担当になるわけ。

—ありがちなパターン(笑)。でもアタマ打ちのベースだけは、今でも天下一品?だよね(笑)

(笑)そのバンドはGSのコピーから始めたんだけど、そうなるともうフォークは聴かなくなっていった。音楽生活においては、テレビの「勝ち抜きエレキ合戦」が大きいものとしてあったね。出てくるバンド出てくるバンド、カッコよくてさ。あ、テレビといえば、アニマルズの来日公演番組を観た時には凄いショックだった。汗みどろのエリック・バードン・・・「Talking About You」とか「朝日の当たる家」とか、やったのよく覚えてる。

—ビートルズの後は・・・

 次の衝撃は、ツェッペリンの「Communication Breakdown」。あのころ、夜10時から15分だけウィーク・デイに連日やってたラジオ番組で、「ソニー・ワールドワイド・ヒット・パレード」っていうのがあって、ビルボードの翌日発表のトップ10を電話で聞いて、ケン田島がDJやりながらかけていくんだけど、たぶんそこで日本で初めてかかった時に聴いて、ショックを受けた。

 ビーチ・ボーイズとかレイダースとか、ビートルズのほかにも好きなバンドはあったけど、でもその時に飛び出してきたツェッペリンの音は全然別ものだった。すごいショックでさ。それで少し志向が変わって、バンドでもクリームとかのコピーをやり始めるわけ。だから2年生の文化祭でやった時の選曲は無茶苦茶でさ、カーナビーツの「好きさ好きさ好きさ」やったかと思えば「Sunshine Of Your Love」やったり(笑)

 今思い出したけど、夏休みに朝霞テックっていう遊園地のプールで、491(フォー・ナイン・エース=ジョー山中がフラワー・トラヴェリン・バンドの前に在籍したバンド)の前座やったことがある(笑)。皆背が高くてカッコよかったねぇ。「ウォーキング・ザ・バルコニー」とかやってた。

 でも2年間ぐらいで、ミュージシャンとしての限界が自分でわかったから、バンドはやらなくなる。3年生になると皆バンドやめちゃうし。それでずーっとレコードばっかり聴いてたな。俺が行ってた高校は、3年生は2学期で終わっちゃうんだよ。後はゼミみたいになって面白くないんで、学校には全然行かずに、家にひきこもってひたすらレコードを聴いてた。

—どのあたりのレコード?

 クリームを聴いてからクラプトンつながりで、黒い方、ブルースの方にどんどん行ったね。マディ・ウォーターズとか。ボトルネック・ギターがかっこよかったから。あとタジ・マハールとか。まぁ誰が何だかよくわからないで買ってたけど。B.B.キングも観に行ったよ。

 で、ズラッと出てたブルース・ブレイカーズのレコードを端から買って揃えたりしたんだけど、その時に、レコード屋で同じコーナーに並んでたジミ・ヘンのレコードに出会うわけ。ジャケットの裏のライナーに「今、イギリスのロック界はちょっとしたショックに見舞われています」とか書いてあって、それで何気なく買って、家帰って聴いたらひっくり返った(笑)

池袋「ドラム」でのGS体験

—聞くの忘れてた、話が少し戻るけど、ヴェンチャーズはどうだった?

 まぁ聴いてはいたよ。「10番街の殺人」のイントロの変な音がかっこいいとか。埼玉会館に来た時も観に行ったけど、でもそれほどいいとは思わなかったな。

—そのコンサート、音響的にはどうだったのかな。ロック・コンサートではあるわけだよね。

 大したことなかったね。そのころ俺はもう、いわゆるジャズ喫茶、池袋の「ドラム」とか行ってグループ・サウンズのライヴを体験してるし。高校が上板橋だったから、通過点に「ドラム」があったんだ。ある時たまたま店の前を通りかかったら、出演スケジュールが出ていた。タイガースとかテンプターズとかも書いてあって、彼らは人気があるから週末組で。

 ライヴは昼夜2回公演、毎日やっていて、こっちは下校途中の平日のを観るわけだけど、昼の部なんか300円じゃなかったかな。で、ゴールデン・カップスとかフラワーズとかやってたわけ、あとパワーハウスとかね。

—あのカップスが300円で観れたっていうのが・・・(笑)

 今から思うとね(笑)。あとアウトキャスト、タックスマン、ダイナマイツとか。たぶん2、30回は通ったと思うから、名のあるほとんどのグループをみてるんじゃないかな。タイガースみたいなAクラスの人気者は別として。

—テンプターズやスパイダースあたりも観てないわけ?

 観てない。だいたいそういうバンドは、女の子が並んじゃって入れないんだよ。逆に俺なんかが好きなモップスとかは、全然並ばないわけ(笑)。男ばっかりだし。モップスはサイケ志向がギンギンで、機材も凄いの持ってて音はでかいし、ジェファーソン・エアプレインとかやって曲は凄いしさ。カッコよかったんだけど。ただカーナビーツ、ジャガーズ・クラスなら観れたけどね。

—そのあたりのグループにも客が少ないということは、いよいよGS末期かな。

 でもまだテレビにはバンバン出てたんだけどさ。あの時代は、プロダクションのセンスっていうのが、時間が空いてたらとにかく働かせるというか、客が入ろうが入るまいがスケジュールを埋めるっていう感じじゃなかったのかな。今だったら露出を減らして価値を高めるとか戦略を考えたりするだろうけど、だって平日の昼間だよ(笑)

—「ドラム」で特に印象に残ってるグループ、ミュージシャンは。

 カッコいい人多かったよ・・・。デイブ平尾や鈴木ヒロミツは印象に残ってるよね。歌もうまいししゃべりもうまいし、音楽のことはよく知ってるし、で。だけど、やっぱりカップスは別格だったなぁ。センスが違うというか、その何というかバタ臭さがカッコよかった。選曲も他のバンドと全然違うんだよ。

 俺はけっこうレコード聴いてたわけだけど、彼らのやる曲は聴いたことのない曲ばっかりだったね。知らない曲なんだけど、でもカッコいい曲なわけ・・・あるいは、知ってる曲なんだけど、アレンジを全然変えちゃって気がつかなかった、という場合もあったかもしれないな、今から思えば(笑)

—「長い髪の少女」とかはやってました?

 やってたよ。一日3ステージぐらいあるから、そのどこかで、たいてい最後にね。

—3ステージ通して観てたわけ?

 そうだよ。ワン・ステージ30分だけど。

—ステージごとに曲入れ替えてたのかな。

 ほとんど全曲入れ替えてた。ただ、30分ステージで、2バンドで交互に出演するんだけど、へたすると30分しゃべってばっかりで、曲をあんまりやらないなんて回もあった(笑)。でもそのしゃべりが、これが面白いんだよ。

 これはアウト・キャストが出演した時の話だけど、おかしなことがあってさ。「ドラム」は1階と2階に席が別れてるんだけど、真ん中に通路が通ってるのを利用して、客を4分割するわけ。それで、メロディ教えて、客に4部のコーラスやらせるんだよ(笑)。一人立たされてやらされて、「はいよくできました」とかさ(笑)

—どんな曲やらせるの?

 アウトキャストのオリジナルだったと思うけど・・・「友だちになろう」とかそんな曲だったけどな。そんなことやってるうちに30分終わっちゃったりするわけ(笑)   

 そうこうするうち、「第1回日本ロック・フェスティヴァル」っていうのを観に行くんだよね。

第1回ロック・フェスティヴァル

—69年9月、ニューミュージック・マガジン誌が主催で、新宿厚生年金会館ですよね。「10円コンサート」と相前後して開かれた、日本初のロック・フェスティヴァルとも言うべきイヴェント。

 だからその時にすごく感慨無量だったわけ。ここで俺はフォークのフェスティヴァル観てたんだよなぁってさ。それこそ、今度はキラ星のごとくの、当時のグループ・サウンズというか、この国のロック・グループが出たわけだからさ。 

 福田一郎さんが司会で、バンド・チェンジのあいだに、ステージにメンバー呼んで話したりしてたけど、よく覚えているのは、終演が夜の10時半ぐらいになっちゃって、福田さんとホールの関係者が舞台そでで大げんかしてるのが見えたんだ、俺の席から。「もう幕を降ろす」「何でそんなことするんだ」とかやってるのがさ(笑)

 会館側を説得というか、脅してというか(笑)、とにかく予定の演奏を最後まで続行させるために、もう必死という感じだったね。今は知らないけど、少なくともあのころ、ああいう所は9時過ぎて終わってなけりゃもう大騒ぎでしょ。10時半過ぎてたもんな。よく通したねぇ。

—あのころのこの国のバンドに対する、熱い思いが感じられる話。 

 スチューデント・フェスティヴァルの時に、同じ会場で9時を15分過ぎた時があったんだけど、主催者が「皆さん早くお帰りください」って、てきぱきと指示して、大慌てで終了させてたからね。余計にその差が印象的だった。「あれれ、10時過ぎてまだやってるよ」みたいな(笑)

—ロックとフォークの違いとは何かを示唆するエピソードかも(笑)。ところでそのロック・フェスの時の、バンドの印象は何か残ってませんか。

 それがあんまり覚えてないんだよ・・・ただPAの調子が悪かったんだよ、確か。モニターとかまだなかったろうし、でもあの会場は変な残響音が回るし、ミュージシャンはやりにくかったんじゃないかな。

—というかPA自体、まだヴォーカル・アンプの延長線上の時代じゃない?システムとして確立してなくて、要するにヴォーカル用のものを多く並べるだけというか。

 バンドごとに持ってるやつを、いちいち入れ替えてたかもしれないな。ミキサー卓なんてない時代だよね。リード・ヴォーカルの人間が、自分のわきにおいたヴォーカル・アンプのつまみを自分で動かして、調節するという。

—客の入りや雰囲気は・・・

 満員だったし、熱気も凄かった。多少音や演奏に難があっても、皆で応援するという勢いがあった。「熱いコンサート」だったよ(笑)

—そういう高揚感を持って、日比谷野音の「10円コンサート」とか引き続き通うようになるわけですか。

 そうだね。

—ほぼ同時期に反戦フォークとか出てくるわけだけど。

 ダメだったねぇ、ああいうのは。俺が聴いてたトラッドなフォークから、よりオリジナリティを持つフォークに変わったところで、やたら暗くなって、下向きっていうか、うつむく音楽になっちゃってさ(笑)

—あぁ、「この広い野原いっぱい」って見上げるんじゃなくて・・・(笑)

 そうそう(笑)。青い空も広い海原もなくなっちゃって、暗?い世界に行っちゃってさ、ハイソな世界から四畳半というか(笑)。暗くなるのはいいけど、そりゃ一人でやってろよ、と。暗くなるのに人を誘うな、という感じ。もう全然お呼びじゃない(笑)

—でも当時の状況で、社会的な問題への意識を持つべきだとか、そういう面でのシンパシーは感じなかった?

 う〜ん、基本的なセンスがね・・・まぁ敵だと思ったわけでもないけどさ。そういう問題はそういう問題で、中学のころからよく考えてて、今アバコ・スタジオの社長やってる男(松本登氏)とかと、「ベトナム戦争を考える会」を作ったりしてた。 

 そのころ中学に宿直室っていうのがあって、担任が宿直の時に、夜中7、8人で押しかけて、ベトナム戦争についての徹夜討論会みたいのをやったり。あのころ、8月15日に、べ平連がテレビで生中継して徹夜討論会をやったんだよ(65年/東京12チャンネル)。それをマネしたんだけどさ。

 そういえば俺はそのころ、まだフラワー・チルドレンとかヒッピーとか何も知らなかったんだけど、愛だ平和だって一人だけ言ってたのを覚えてる。回りの人間は皆「何言ってんだ、こいつ」って感じだったけど(笑)

 そのあと、浦和高校すべって、城北高校に通い始めたころが、ちょうどベトナムの北爆がいよいよ激しくなった時でね。それで、通学の時の手さげのカバンに、俺は字が下手だから姉さんに書いてもらって(笑)、「ベトナムに平和を」って書いた布をぬいつけて毎日学校通ってたんだ。そしたら民青が誘いに来た(笑)。いかにも民青っていう、うらなりびょうたんみたいのが(笑)。「君、政治に興味あるの?」ってさ。

—改めて聞くのも何だけど、その時民青には行かなかったんですか(笑)

 こっちの回路が全然反応しなかったからね。まぁ「歌って踊って民青」ってバカにされてたし、そういうのが・・・。

—「歌って踊って」、いいじゃない(笑)

(笑)いや、そういうことに関しては真面目だったから。政治というのはそういうもんじゃないだろう、と。そうやってたぶらかして誘い込むのは邪道だろう、と。

—新宿西口のフォーク・ゲリラにも行かなかった?

 あ、あれは何度か行ってるよ。歌ったこともある。

—えっ?それは初めて聞いた。URC査問委員会行きだな(笑)

(笑)まぁ俺は説得しに行ってるんだけどさ。

—何だそりゃ(笑)。何を?誰を?(笑)

 何人かに議論ふっかけて、こういう方法じゃなくて、例えば大新聞に意見広告を載せるとか、もっといいやり方があるんじゃないかってさ。

1969年10.21国際反戦デー

 でも俺にとって決定的だったのは、69年の10.21(国際反戦デー)だったな。池袋の雑司ヶ谷公園から大学生のデモが出るらしいって聞いて、何人かで集まって、それに入ってデモ行ってるんだよね。

 俺自身は主義としては非暴力派なんだけど、そのデモが新宿で大暴れして大乱闘になっちゃってさ。まぁ結局一回制圧されちゃうわけだけど、こっち側が建物にへばりついてしのいでる所を、機動隊が威圧的にのし歩いて・・・。

その時、後ろのほうから女の子が何か言ったんだよね、機動隊に。そしたら4機(第4機動隊)のでっかい20人ぐらいがバーッと出てきてさ、髪の毛つかんでバリバリバリって、引きずってくわけよ、その娘を。

 で、皆息をのんで見てたんだけど、俺は思わず「やめろー!」って叫んだわけ。そうしたら「誰だぁ、今言ったのは!」って、連中、今度は俺の方にバーッと向かってきたんだよ(笑)。それで俺を引きずり倒そうとするわけ。でもここで倒されたら終わりだなと思って、踏ん張って立ってたら、盾の小さいヤツで顔をバンバン殴るんだよな。

—で、どうなったわけ?

 別のほうでピーって笛が鳴って、連中今度はそっちに行っちゃったんで、何とかなった。でももう顔は血だらけ(笑)。当時、テレビでそういうデモの激しい状況は観てたから、ある種の覚悟は持って行ってたけど、まさか実際にそんなことになるとは思ってなかった(笑)。それが決定的だね、体制に対する不信ということでは。何だよこれは、という。

 俺もその娘も、声を出しただけなんだから。その時、「おまえら、公務員の分際でいったい何様のつもりだ」って、ほんとアタマに来たよ、そんなこと言ってるヒマなかったけど(笑)。その翌月には、今度は日比谷の野音の佐藤訪米阻止の集会に行って・・・。

—あ、それはブラインド・バードが出演して、一部の参加者に排除されちゃった集会だよね。

 ブラインド・バードは覚えてないな・・・もう周囲の警備がすごくて、たどりつくまでがほんとに大変で、野音に着いたの遅かったから、もう終わってたんじゃないか。どのみち、あたり一帯騒然としてるわけで、バンドが演奏するなんて状況じゃなかったと思うけどな。

—まぁ、だから場違いに思って排除する人も出てきたわけでしょう。

 その集会でさ、何君って言ったかな、蓮実さんの仲間だったと思うけど、「我々の肉体は、我々の情念は、蒲田へ、蒲田へと志向している!」って、とにかくものすごい激烈なアジテーションをやったんだよ。それで盛上がって、3千人がワーッて蒲田に向かって出ちゃうわけだ、デモの許可下りてないのに(笑)。で、たまたま革マルかなんかの突撃隊が先に突入して追い出された後に突っ込んでって、一番羽田空港に近づいたわけ、当時の反対運動としては。

 当然またすごい大乱闘になってさ。もちろん粉砕されるんだけど、皆バラバラになって逃げ回って、俺も路地裏逃げて行って、知らない家の門のあたりにへばりついて隠れてたわけ。でももうそこらじゅう、「御用だ御用だ」じゃないけど、機動隊が声を挙げて駆け回ってて、もうダメだなこりゃと思ってたら、突然、その門が後ろでガラって空いたんだよ。

 えーっ!と思ったら、浴衣姿のおじいさんが立ってて、「わけは知らんが入りなさい」って言うわけ(笑)。それで1時間ぐらい玄関にかくまってもらって・・・それで無事帰って来れた。

—う〜ん、「人民の海」ってやつだねぇ。

 そうそう、そのおじいさん、タバコ1本くれてさ。「しんせい」か「いこい」か、こんな両切りのやつまだあるんだって、思ったの覚えてる。あの時かくまってもらってなければ、間違いなく俺は逮捕歴1回ということになってたね。あのころ、無茶苦茶なこといっぱいあったけど、俺はなぜか逮捕歴ないんだよね。前科2、3犯あってもおかしくないんだけど。運がよかったんだな。

—運がいいというか、悪運が強い(笑)

 それで無事北浦和駅に戻って来る。駅で回りの人は皆避けるわけ、催涙弾の粉で全身真っ白だったりするから無理ないんだけど(笑)・・・でもその時に、非日常から日常へ、電車で帰ってくるっていう、何というかすごいギャップ・・・断絶感というか、何かが間違ってるって、痛烈に思ったわけだよ。

 だって、内乱とまではいかないけど、ものすごい騒乱状態の場所にいて闘ってたのに、たかが1時間電車に乗って、ちゃんと切符で改札出て(笑)家に帰るというのがさ・・・ものすごい違和感があった。切符買って電車で帰って来ちゃ行けないよ、やっぱり(笑)。そういう感覚があったんだ。つまり闘うんなら浦和で闘わなきゃウソだろうっていうことを、その時ものすごく感じたわけ。

「非日常の東京」⇔「日常の浦和」

—その、「非日常の東京」から「日常の浦和」に帰ってくるという構造への違和感というのは、「野音でロック・コンサートを観てロックのない浦和に帰ってくる」という場合にも同じようにあったわけだよね。

 集会でも野音に行けば、コンサートでも野音に行くし、リンクしてたね。一つにはそういう違和感が、ウラワ・ロックンロール・センターにつながって行った。URC最初のスローガンは、「川こっちにもロックを!」だからね。

 ロックンロール・センターという名前は、俺がつけたんだ。ある時、誰かの追悼集会だかなんだかで、そこに赤軍が殴り込んで、野音の回りで大乱闘になった集会に行った時に、中核でも革マルでも、ケガ人だったらすべてケアするっていう、「救援連絡センター」っていうものの存在を知ったんだよ。

 それを、おもしろいなぁ、と思って見てたわけ。その時の「こういうのがいいなぁ」という思いが、ロックンロール・センターの名前の由来のおおもとにある。

—どこかの党派に入ろうと思ったことはない?

 ないね。やっぱりノンセクトがカッコよかったね。だいたい俺は理論的なことは苦手だから、そういうのは党派の連中に任せることにしてた(笑)。それで、理論的なことが同じように苦手で、でも何かやりたがってる人間はいるわけだから、そういう連中と一緒に何かやれることがあるんじゃないかっていうスタンス。

 だいたい各党派の言ってることなんて、俺からすると区別がほとんどつかない(笑)。だから、ましてやそんなことで殴り合う気になんてならない。さっきも言ったけど、俺自身は非暴力派だし、それに俺ケンカ弱いし(笑)

 結局当時一番共感したのは「殺すな!」っていう、べ平連の標語だったしね。デモでヘルメットかぶったっていっても、ファッションみたいなもんだよ、少なくとも俺の場合は・・・そういえばヘルメットはいっぱいあったよ、30個ぐらい(笑)。あちこちの工事現場から調達して来て、黒く塗って貸し出しやってた(笑)

—なんスかそれ(笑)。でも、とは言っても、そういう暴力的な場に自ら行ってるわけだよね。

 まぁ、例えばまだベトナム戦争は続いてたわけだし、非暴力も何も、行かなきゃ始まらないからね。ただ、非暴力派ではあったけど、「非合法」は別にいいんだよ(笑)。まぁ俺もアナキズムにひかれてたからさ。権力が困っちゃうようなことは歓迎なわけ。

—いわゆる70年安保闘争が、6月の自動延長で退潮していった70年10月にURCが発足するわけだけど、そのころにはもう中央のデモには行ってなかった?

 もう行ってないね。浦和のデモや集会にはまだ行ってたと思うけど。ただ、一気に熱気が失せてたからね。人数も集まらなくなって、朝霞の自衛隊観閲式の反対デモ行ったって、機動隊のほうが3倍ぐらいいたし。デモ隊なんて言っても、サンドイッチされて姿が見えなくて、機動隊がデモやってるようなもんでさ(笑)。もう自分のモチベイションも低くなっていった。

 覚えてるのは、70年の9月だったと思うけど、そういう状況での玉蔵院の集会で、何人かと「ロックで何かやろう」みたいなことを話したんだよね。(玉蔵院〜浦和でのデモ・集会の拠点になった公園)

—その時は蓮実さんはいたの?

 いやいなかったな。でも1年ぐらい前から、蓮実さんのアパートで、ロックのレコードを集まって聴く茶話会みたいのは始まっていた。

—1年前というと、ちょうど蓮実さんが「致命的ストーンズ中毒者同盟」名義で「黒くぬれ!」というレコード・コンサートを開いてるわけだけど(69年9月)、それについて何か覚えてますか。

 覚えてないな。使うステレオを貸したのは確かだけど、俺は行ってないんじゃないかな。ストーンズあんまり好きじゃなかったし。

—まだデモのほうが面白かったからかも(笑)

 そうかもしれない(笑)

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