1971年8月28日(sat)●駒場サッカー場
真夏の炎天下、700人前後を集めて、浦和の市街地にある 駒場サッカー場 * でこのイヴェントは開かれた。写真は残っていないと思っていたが、かろうじて以下の3枚を発掘したので紹介する
※09.8.23追記:頭脳警察のスライドショーをUP!!
- * 駒場サッカー場
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この「駒場サッカー場」は、客席なしのコートが一面あるだけの施設で、隣接する「駒場スタジアム」(浦和レッズのホーム)とは別ものである。現在はそのサブ・グラウンド的なものとして整備され、ユースの試合やサッカー教室などに使われているようだ。
当時はろくに芝生もなく、写真を観てもわかるように、観客は土ぼこり舞うそのコートに座り込んで聴いていた。
余談だが、金網のフェンスがバックネットの印象を与えたためか、PANTAや森園勝敏など出演者の多くに、会場が「野球場」として記憶されていたりする。
安全バンド
▲結成約半年後の安全バンド。当然まだ3人編成だが、3人とも顔がよく見えないのが残念。初めからほとんどの曲が日本語のオリジナルだったはずだが、それにしてもこの時代、ギターとアンプをつなぐシールドが短い・・・。
背景のフェンス裏の木々の奥には火葬場があり、実はそれがコンサートの「フェニックス」というタイトルに掛けられていたと知ったのは最近のこと。
エム
▲伝説のバンド、エムの垂水孝道(ヴォーカル)と浅野孝己(ギター)。エムはURCの中でも人気が高く、特に創立時のスタッフの一人で現在「レーベン企画」を運営する山本氏が、「ザ・エムを見る会」を名のるほどの追っかけのファンだった。なお安全バンドとURCの出会いは、その山本氏が、立教大学でのエムのコンサートに出演していた安全バンドを見そめたことに始まっている。
頭脳警察
▼スライドショー▼
▲8月14、15日の三里塚「幻野祭」出演から2週間後のステージである。頭脳警察がURC主催のコンサートに出演したのは、実はこの時が最初で最後。あとは75年9月の田島ヶ原コンサートに出演する予定があったものの、当日ドタキャン。ただし、日比谷野音での「ロック・エリア」を初め、都内でURCが関係したコンサートでは常連だった。
写真の右端に立っている横顔の人物が、URC創設者ともいうべき蓮実さん(History〜interview 蓮実研一参照)。彼はこのイヴェントを終えるとURCの活動からは退く。
- poster & text
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◎1971年8月28日(sat)◎
フェニックス・ロック・フェスティヴァル
第一期URCの集大成ともいうべき野外フリー・コンサート。会場の駒場サッカー場は、隣接する駒場スタジアム(浦和レッズのHOME)とは別もので、金網フェンスとゴールを設置しただけの、芝生もない土のグラウンドだった。
真夏の炎天下、集まった700人前後の聴衆は、そのままグラウンドに座り込んで聴いていた。まだURCに参加していなかった管理人もその中の一人で、この時高3、客席右寄りの後方にいてヤジを飛ばしたりしていた(笑)
ステージ〜といっても高さ10センチもないぐらいの木の板が敷かれていただけだったが〜左手にはURC関係者が出した飲食物などの売店が2、3出ていた。けっこう繁盛していたと思う。当然売上げはこのフリー・コンサートの費用に回ったのだろう。
この時、私は安全バンドや四人囃子を初めて観ているはずなのだが、正直言って、彼らに限らず出演した個々のバンドについては、不思議なほど何も記憶が残っていない。ただ退屈した記憶はなく、集まった皆で出演バンドや主催者側を温かく見守る、という感じの、えも言われぬなごやかな雰囲気を楽しんでいた。
唯一、出演者ではっきり覚えているのは、最後に登場したニュー・ダイナマイツである。
実はこの日最後にトリとして登場するのは、前年の「玉蔵院」に引き続きブルース・クリエイションのはずだった。しかし、この日は彼らは出演していない。コンサートの進行が遅れたため、一つ前のニュー・ダイナマイツが終わった時には、既に当局の許可を受けた夜7時が過ぎてしまっていて、演奏できなかったのである。
まだ深夜というわけでもなし、もう少し時代が下れば事態は違って、30分ぐらいは延長して演奏ができたかもしれないが、しかしロックがまるで「異物」として存在していた時代である。いきなり市街地に響いたサウンドには、午後1時のコンサート開始当初より近隣からの苦情が殺到していたため、それは不可能だった。
ニュー・ダイナマイツは、日も暮れて暗くなり(街灯ないしはグラウンド用の照明がついていただけだったと思う)、途中でコンサートが打ち切られる旨の主催者側のMCや、苦情を受けて出動した警官の姿に、会場が少しざわついている中へ登場した。
曲目を覚えているわけではないが、ギターの音やヴォーカル(瀬川洋)が、この日いちばんガン!と客席に届いてきた記憶がある。客を引き込むパフォーマンスということでも、一日の長があったように思う。確かラストにハード・ブギ・アレンジの「Get Back」が演奏され、大いに盛上がったところでこのイヴェントは終わる。
ブルース・クリエイションの演奏がなかったことへの不満で、このイヴェントがネガティヴな雰囲気で終ったという印象はない。それはその盛上りに救われた所も大だったろう。
そして個人的に何よりも最も明確に覚えているのは、住んでいる家から歩いて来れるような、自分が住み暮らしている街の一角に、白昼夢のようにこんなロック・イヴェントが出現したことへの昂揚感である。それは、日比谷野音にせよ何にせよ、都内で開かれるロック・コンサートへ行った時とは決定的に何かが違う、特別の昂揚感だった。
その体験が幸だったのか不幸だったのか、今となっては複雑な所もあるが(笑)、とにかくこのイヴェントのほぼ半年後、気がつけば私はURCにスタッフとして参加していたのだった。
memo
ポスター最下段にある「演奏堂」は、浦和駅西口にあった県内最大のレコード屋で、北浦和駅東口にも支店があった。だが80年代のレンタル・レコード店の登場で、どちらも閉店してしまった。当時からあるレコード店としては、北浦和の「マルイ・ミュージック」のみが、数年前に新装も果たし今でも健在である。両店とも、よくコンサートのチケットを置いてもらったり、ポスターを貼ってもらったりご協力いただいた。
余談だがその「演奏堂」で、ロックのレコードがどうしても欲しくて万引きを重ねた、S氏という人物を知っている。もちろんCDじゃありません、でかいLP盤ですよ。何でもシャツだかセーターの下に突っ込んで犯行に及んだとか。それほどロックに熱い思いがあったというべきか、そんなリスクを犯すほど金がなかったというべきか・・・(ダメですよ、万引きは)。
※頭脳警察の写真はRSU(ロック・ソサエティ・ウラワ)松本清さんのご協力で掲載させていただきました。ご好意に深く感謝いたします。