安全バンド
『 夜(The Night) 』
完全版はCD『安全バンドLIVE !1974-76』に収録
東洋大学学園祭<白山祭>
1974.11.18
夜(The Night)
作詞・作曲:長沢博行
personel
長沢博行(vo,b)
相沢民男(vo,g)
伊藤純一郎(vo,ds)
*support
*中村哲(key,sax)
memo1/1
Mountainの「Crossroader」と似たリフを持つこの曲は、演奏するたびに長くなっていった観のある曲で、最終的には、緩急のうねりの大きい、繊細かつダイナミックな15分以上の大作に練り上げられた。
この日のライヴでは、初めてこの曲に参加した中村哲のオルガンが、サポート的なプレイに徹してはいるものの、曲の魅力を最大限に引き出すことに貢献している。
アレンジ的には、エンディングの前にその中村のオルガンが奏でる「葬送行進曲」のメロディをはさみ、さらに「夜」が終わったあとに「さぁ出ておいで/暗闇の中から/もう日が昇る」という歌詞がくり返されるピンク・フロイド風の曲をメドレーでつなげて「朝」を迎える、という凝った組曲形式になっている。
その「暗闇の中から」という曲もいずれ音源をupするつもりでいるが、四人囃子の「泳ぐなネッシー」へのアンサー・ソング的なところがあり、当時メンバーがそう語っていた記憶もあるのだが、先日長沢ヒロに尋ねたところ、覚えていなかった。
というより、実はその曲自体を全然覚えていなかった(笑)。私はこの日は珍しく客席でじっくり聴いていて非常に印象に残り、以来ずっと覚えていたのだが。歌詞は上記の引用部分しかない小品ながら、長沢ヒロらしい切ないメロディの佳曲である。
ステージは、「暗闇の中から」が全体に非常にブルーな余韻を残して終わると、証明が素明かり的に一転してタイトなエイト・ビートのドラムが始まり、なんと髪をリーゼント風に固め、黒のサングラスにチェックのボタンダウン、ベルボトムからスリム・ジーンズに着替えた「不良っぽい」長沢ヒロが登場、「怒りをこめて」を歌い出すという進行だった。
この日はそんなふうに全体的にも非常に凝った構成・演出がなされたのだが、今ふり返ると、中村哲のサポートを得つつも、71年に結成されたオリジナル安全バンドの、その集大成的な入魂のステージだったといえるだろう。
memo1/2
そうした工夫を凝らした構成・演出は、東洋大のサークル「Show Stage研究会」とのコラボレイションによるものだった。「Show Stage研究会」は、この日に限らず、田島ヶ原を含むURC初期のコンサートの照明チームとしても活躍している(いつの日か、スタッフだった方にインタヴューできればと考えている)。
さて、「夜」は、75年に入るとそれ以降ニ度と演奏されることはなかったので、11月のこの日の演奏が最後だったと思われる。だが73〜74年の間は、基本的にこの曲が、彼らのステージのラストを飾る最も重要なナンバーだった。
その後代わりに解散までその役をつとめることになる「けだるい」は、「夜」が演奏される場合はオープニングに位置することが多かったのだが、恐らく初めてこの日その位置が交代し、「夜」は前述のようにステージ半ばで登場し、「けだるい」がラストという曲順になっている。
「けだるい」は「夜」より遅れて出来上がってきた曲だが、後者の重厚長大路線とは相反する、よりモダンな引き締まったハイパー・ハード・ロックンロールであり、曲づくりのコンセプトが基本的に違うものだ。
したがって別の言い方をするなら、安全バンドにとってこの日は、「ニュー・ロック」的な重厚長大路線の極点ともいえる「夜」に別れを告げ、ハード・ロックを基本としつつも、新たによりタイトな、あるいはよりポップでソフィスケイトされた道へと〜この曲の歌詞になぞらえて言うなら「太陽が睨みつける」世界へと〜進むべく一歩を踏み出した、その画期を成す日とも言えるだろう。
ところで、「けだるい」で終わったステージはアンコールの嵐となり、アンコールのロックンロール・ナンバー「Discover Japan」が始まると、興奮したたくさんの客が上がり込んでステージを占拠、次々と空いているマイクでてんでに歌い出すなど大混乱となった。
「聴衆のステージ占拠」という事態は当時ままあったことだが、東洋大は安全バンドのホームであり、彼らの人気は高く、親近感が強かったこともあるだろう。
残された録音には、「Discover Japan」が終わってメンバーが去った後に、「皆が呼べばまた出てくるよ」「さぁ行ってみよう!」とか勝手なことをマイクで叫ぶ男女の声が入っている。客席にいた私も最後はステージに駆け上がってマイクスタンドを死守、結局警備員役をやっていた(笑)。
その2度目のアンコールには「外へ出よう」が演奏されて、この日のライヴは狂乱のうちに幕を閉じる。
memo1/3
そして、こうしてこの日の音源を聴き返しながら、今にして思う。この日までの安全バンドの姿をレコードとして形にできなかったのは、極めて不幸なことだったと。
翌75年にリリースされたファースト・アルバム『アルバムA』は、実質的に5人編成となった新生安全バンドのものであり、その意味で「セカンド・アルバム」となるべきものだった。あのアルバムからは、内容自体の良し悪し以前に、この日の「夜」で発揮されていたような安全バンドの重要な魅力の一面は、想像することすらできない。
『アルバムA』リリース時のキャッチ・コピー、「遅すぎたデビュー」というのは、だから私にはどうしてもほろ苦く響くところがある。
memo2
「夜」という曲は、エンディングに向かう盛り上りの中で、「さぁ俺たちの世界に」「さぁ暗闇の中に」という歌詞が、長沢ヒロの、時に囁くような、時に脅すようなヴォーカルによって何度もくり返されるのだが、74年5月25日の浦和市民会館「エレクトリック・トラベル・コンサート」での演奏時には、客席後方の両端にPAスピーカーを設置し、4チャンネル仕様でそのヴォーカルを会場内にグルグル回すという、当時としては画期的な試みがなされている。
消防法に抵触するということで、客席へのスピーカー設置に関しては、会館側を何とか丸め込んだ上でのことだったが、その4チャンネル・PAシステムを開発・制作したのはタージ・マハル旅行団のエンジニアの林勤司氏。彼は安全バンドのエンジニアでもあり、ライヴには必ず参加し腕をふるっていた。
まだまともなミキサーが市販されていない時代に、安全バンド及びURCは、以前から林氏が制作した高機能のミキサーのお世話になっていた。彼の名にちなんで「きんちゃん」という愛称で呼ばれた、銀色のステンレス・パネルもまぶしいそのミキサーに、4チャンネル用の回転レバーが立っているのを見た時には驚いたものだ。
memo3
東洋大に先立つこと約3ヶ月前の郡山「ワンステップ・フェスティバル」でも、「夜」はステージ最後に演奏されているが、真夏の野外、真っ昼間の出演であり、曲の内容を考えると少々無謀な選曲とも思える。
この時は、エンディングで伊藤ジュンペイが「コケコッコー!」と叫ぶというギャグをかまして、やはり”朝”につなげているが、そうした役回りは常に彼が担っていた。『アルバムA』の「けだるい」のエンディングの笑い声や、2ndアルバム『ふしぎなたび』の「お祭り最高」でのナンセンス・ギャグ、「サイケデリックだなぁ」も彼のもの。
memo4
後追い世代の一部には、安全バンドはプログレ・バンドだったという認識があるようで、四人囃子と活動を共にしたことや、あるいは『ふしぎなたび』にそういう匂いを感じてのことだと思うが、この「夜」におけるパフォーマンスはまさにプログレ的な印象を与えるものだ。
タイプとしてはある種のドイツ系プログレに近い所があり、同時期のGuruGuruに、この「夜」あたりと通ずるサウンドがあったりする。メンバーがリアルタイムでドイツものを聴いていたとは思えないが、四人囃子の英国的哀愁やイタリア系、ラテン的明るさ志向にはない、どろどろとしたゲルマン的暗さに通ずる部分が対照的であり、二つのグループのキャラの違いを感じて興味深い…..こういうのを牽強付会というのかも(笑)。
ちなみにチェコのジャズ/フュージョン・グループSHQが、『ふしぎなたび』の1曲目の「果てのない旅」と非常に似た、ソプラノ・サックスをフィーチャーした曲を同時期にやっていることを付け加えておく(もちろん、お互いに相手のことは知る由もないはず)。