『テーマ〜ごきぶり〜俺たち素敵さ〜汚れた世界』
(MEDLEY EDITION)
作詞:アソウユキカズ/作曲:酒巻健次郎

1979.9.16 田島ヶ原フリーコンサート

メモ

『テーマ〜ごきぶり〜俺たち素敵さ〜汚れた世界』
作詞:アソウユキカズ/作曲:酒巻健次郎

personel
大沢 一郎(vo)
酒巻 健次郎(g,cho)
永井 徹(b,cho)
アソウ ユキカズ(ds,cho)

鉄城門は、すでに紹介ずみのレディキラーと同じく所沢のバンドであり、78年から80年までの3年間、レディキラー同様URCのイヴェントの常連だった。

彼らが登場したのは、セックスピストルズがデビューし、まさに「パンク」が話題となり始めた時期だった。URCを訪れる若手のバンドの漫然としたハード・ロック志向、でなければギター・インストのフュージョン志向、という傾向に退屈していた我々は、パンク志向の彼らの登場を大いに歓迎した。たしか出演していたライヴハウスとトラブルになり、出られる所を探していて、我々の事務所にやってきた、というのが最初の出会いだった気がする。

彼らはピストルズ、英国パンクの影響を明言していたが、その音楽性自体はハード・ロック的な側面もあり、ライヴではパンクが否定した「長々としたギターソロ」もふんだんに展開された。しかし彼らのサウンドに表現された切迫感、暴力的な感覚は、間違いなくパンクとしかいいようのないものだったし、新しい世代のロックの到来を実感させるものだった。

放り出すかのような粗野な演奏ぶりに惑わされて見失うべきではないが、暴走気味のギター、ベースを非常にタイトかつクールなドラムが引き締めつつ、全体をパワーあふれるヴォーカルがグイグイと牽引していく鉄城門のサウンドは、各メンバーの秀でた演奏力があればこそ成立しているものでもある。

また、何の根拠も示さずいきなり「俺たち素敵さ」と言い切ってしまうような歌詞の世界も、独自かつ新鮮な魅力があった。

「早く死んじまえ」と罵り続ける『ごきぶり』を聴いた時、メンバーに「しかし身もフタもない歌だな」と言ったら、「いや、あれはほんとにゴキブリに言ってるんすよ。ゴキブリ大嫌いで」と言う。なるほど、一聴した印象に反して、歌詞は人様に対してではなく、周到にゴキブリ相手に書かれた形を貫いている。

そんな「ひねり」のような奥行きが随所に感じられたことは、徹底的に陽性なバンドのキャラとあいまって、薄っぺらな反逆者気どりとは一線を画す輝きを放ち、我々を大いに惹きつけたのだった。

URC関連のイヴェントへの最初の出演は、1978年4月29日、浦和・ほまれ会館でウラワ・バンド連合が主催した『プレイ・パワー Vol.9』。同年8月のEAST WEST’78(ヤマハがアマチュア・バンドを対象に開催していたコンテスト)全国大会で彼らは「努力賞」を獲得、受賞バンドの演奏を集めてキャニオンからリリースされた2枚組LPには、その時演奏した「汚れた世界」が収録されて、一躍注目を集め始める。

ところで、所沢といえばPANTAが生まれ育った街でもある。鉄城門は当然のごとく頭脳警察の影響もあったようで、一部のメンバーは、PANTAの家によく遊びに行って鉄城門のテープを聴かせたりもしたそうだ(その時のPANTAの感想は・・・ひとこと、「ナウじゃん」だったそうだが)。

ここで、79年9月に発行された「鉄城門特集」のURC機関誌掲載のインタヴュー記事から、彼らのノリや当時の所沢のパンク・シーン?が伝わってくる部分を抜粋してみよう。


高沢:大沢君がコーラの瓶で殴られたという話を聞いたんだけど。

大沢:あれはオレがね、すげぇパンクの格好して歩いてた時にね、テディボーイが3、4人集まってきて、袋叩きにされたんです。所沢の街角で。

酒巻:街角って・・・畑のそばだよな。

大沢:ハハ、やべぇ。

高沢:原因は?

大沢:原因はまるっきりナシ!ただ、イギリスにかぶれて。相手もすげぇイギリスにかぶれてて・・・よくイギリスの街角で、パンクとロックンローラーがやり合うみたいな・・・そういう感じでやられた。

アソウ:殺されなくてよかったよ。

大沢:うん。


物騒な話ではあるが、しかし「畑のそば」って・・・(笑)

さて、その後「田島ヶ原」、埼大オールナイト・コンサートにも出演し、URCのイヴェントで大いに活躍してもらった鉄城門だったが、80年の「URC創立10周年記念コンサート」(@埼玉会館)において、彼らとの関わりは終わりを告げる。

ギタリストが変わったこの時の音源を聴くと、パンク色は希薄となり、ビートルズの「I Saw Her Standing There」をカヴァーしていることに象徴的なように、パワーポップ・テイスト主体の音楽性へと変化を見せている。ポップな楽曲群も元々あったとはいえ、不遜とまで言えるようなパンク志向に惹かれた我々としては、そうした変化に少々とまどったことを覚えている。

そして鉄城門は、そのステージから間もなくして残念ながら解散。

彼らの活動の軌跡は、パンクの波がこの国のロック・ファンにも衝撃を与えた一方で、サザンオールスターズが78年に「勝手にシンドバッド」でブレイクしたことを受け(ちなみにサザンは77年のEASTWEST入賞バンド)、レコード会社、プロダクションが競って若いバンドに触手を伸ばし始め、「売れセン」なる奇怪な言葉が飛びかった時代を縫って、描かれたものだったと言えるだろう。

追記:鉄城門オン・エア事件簿

鉄城門は、管理人が79年当時「審査委員長」として出演していた、TV埼玉の若者向け番組のバンド・コンテスト・コーナーに出演し、その週の優勝バンドとなっている。しかしその際の、スタジオ内を走り回っての八方破れのパフォーマンスにディレクターが激怒。日を改めて収録される月間チャンピオンを選ぶコンテストには再出演させない、と管理人に通告してくるトラブルがあった(最終的には再出演は果たされている)。

まぁ八方破れといっても、メンバーの一人が裸の上半身をTVカメラに押し付けるとか、その程度のことだったんだが・・・やっぱりまずいか?(笑)下半身じゃなかったんだけどね・・・。

また82年、NHKラジオ第一放送の「ゆうべのひととき」という番組で、埼玉の文化を紹介するコーナーにURCが取り上げられることになり、管理人がトーク出演した時のこと。

局側の、URCの活動に関わる曲を2曲かけたいというリクエストを受け、管理人は、成熟したロックの姿を示す曲として安全バンドの『偉大なる可能性』、成熟を拒む、よりリアルタイムのロックを示す曲として鉄城門の『ごきぶり』(今回UPしたのと同じ音源)をセレクトする。

その対比によって、URCの活動の幅を表現したかったわけだが、当日のスタジオ、本番前のチェックで「偉大なる可能性」を穏やかな顔で聴いていた局のディレクターの表情が、『ごきぶり』が始まるや、みるみる表情がこわばって行き・・・「こ、これを放送したら、苦情が殺到して大変なことになる」とうめき始めたのだった。

彼が最も問題にしたのは、要するに「ご老人がこれを聴いたら・・・」ということだった。「こんな曲かけたら私はクビ」という顔をしている彼に、いや、これはゴキブリのことを歌ってるんですよ・・・という話が通用するわけもなく、結局『ごきぶり』は放送できずに終わる(ちなみに代わりにかけたのは、フジタヨシコが在籍したマゼンダの『OIL』)。

今になって考えれば、「NHKの夕方の一般家庭向け全国放送」という、コンサバの総本山みたいなシチュエーションで、『ごきぶり』がオンエアできるわけもないのは自明なのだが、当時あんまり頓着せずそんな選曲をしたのは、管理人も若かったんだな〜。

・・・というわけで、メディアをめぐってそうした摩擦があれこれと発生した、パンクな鉄城門なのだった。