URC発足前後の野音の記憶

—70年の9月頃、何人かと「ロックで何かやろう」みたいなことを話して、いよいよURCがスタートするわけだけど、その話に行く前に、滝口君がその時点で好きだった日本のロック・ミュージシャンは誰だったのかな。

 特にはいなかったね。強いて言えば、ギタリストなら陳信輝かな。ヴォーカルでは麻生レミ。フラワーズはよくドラムに観に行ったよ。かっこよかったよ・・・あ、かっこいいと言えば、今思い出したけど、高校の夏休み、昔あった朝霞テックっていう遊園地に自分のバンドで出演したことがあって、その時の対バンが491(フォーナインエース)。

—そのころは「城アキラ」だった、ジョー山中のいたGSのバンド。

 対バンっていうか、もちろんこっちは単なる前座だけどさ。ジョーだけじゃなく、皆すっげ?背の高いメンバーばっかりで、かっこよくてさ・・・まぁプールサイドの余興だし、その時期、もう聴いてる客なんていないんだけどね(笑)。でも彼らは裸になってもかっこよくて、圧倒されたねぇ。「ウォーキン・ザ・バルコニー」も演奏してたよ。

 好きな向こうのバンドで今思い出したのは、ブルース系を追ってた時にハマったポール・バターフィールド・ブルース・バンド。キーボードのマーク・ナフタリン・・・ヘロインの香りがするピアノ。ナフタリンじゃないだろこれ、みたいな(笑)。

—URC発足と前後する時期、10円とか100円とか、日比谷野音のコンサートにも足しげく通ってたんだよね。何か印象に残ってることは。

 当時はバンドがたくさん出る企画ばかりで、だから昼間からやってるコンサートが多かったんだけど、野音はなぜか昼間でも白けない場所なんだよね。それにもしバンドがつまんなかったら、どっか遊びに行っちゃう事もできるし、音楽を自由に楽しめるというか、つくづくいい場所だったな。

—野音はいいよねぇ。でも、いつも金払わないで入りこんだと聞いてるけど(笑)。10円、100円、あのころ入場料は高くてもせいぜい数百円でしょ?それが払えないほどお金に困ってたわけでもないでしょうに。

 う〜ん、確かにその金がなかったわけじゃないが・・・何だろね。塀を乗り越えて払わないで入る、という事自体に何か醍醐味を感じてたのかもしれない(笑)。決まりごとの壁を乗り越えて「解放」に向かう、みたいな(爆)・・・あ、100円コンサートの時だったと思うけど、当日券代わりに、平凡パンチを1ページずつ破って渡されたことがあったな。

—なんスか、それ?

 後で思うに、たぶん入場者数を把握したかったんじゃないかと思うんだけど、何でこんなもの渡されるのか全然わからなかった(笑)。何だかママゴトみたいであっけに取られた(笑)

—牧歌的な話だね〜。ところであの時代、会場には荒々しい雰囲気が漂ってたりもしたわけだけど、トラブル的なエピソードの記憶はない?

 俺は特にはないかな・・・。

—例のPYG(沢田研二・萩原健一らを擁したスーパー・グループ)が出演してブーイングを喰らった時に、観に行ってたんだよね。帰れ!って缶が飛んだりしたとかいう。

 あぁ、でも俺は何でそんな反応するのか理解できなかったよ。だってスーパー・バンドじゃない?バックに堯之(井上堯之/ex.スパイダース)さんとかもいるわけだしさぁ。その時裕也さんが出てきて、悲しそうな感じで怒って、何だかしゃべってたな。「おまえらもっと温かく見てやれないのか」みたいなことだったと思うけど。

 その時だけじゃなく、野音では、裕也さんとかミッキー(カーチス)さんとかステージに出てきて、よくしゃべってたよね。内容は具体的には覚えてないけど、要するにムーヴメントとしてロックを盛り上げて行こう、的な話だったと思う。俺はすごく好感を持ってそういうのを受け止めてた。

 そういえばトラブルというか、蓮実君が、たまたま村八分がステージがやめちゃった時に観に行っててね。彼、文句言ってやったって話してたよ。俺は行ってないから詳しくはわからないけど、チャー坊とやりとりがあったみたいで、「せっかくこうやって皆聴きにきてるのに、ちゃんと説明もなくやめちゃうのはよくないんじゃないか」みたいなことを言ったらしい(笑)。

—(爆)あぁ、理路整然と。言いそうだな〜、蓮実さん(笑)。チャー坊の伝説っていうのはあれこれ聞くけど、チャー坊に文句言った人の話は初めて聞いた(笑)

 もっとも蓮実君も、俺と同じで塀を乗り越えて入ってたクチなんだけどね。

—じゃ、そんなこと言える立場じゃないじゃない(笑)

参考●当時の野音のコンサートの一例

70年
71年

ウラワ・ロックンロール・センター、スタート

—さて、で、「ロックで何かやろう」という思いは、URCがその発足を宣言した1970年10月14日の「ジミ・ヘンの魔法のランプ」のレコード・コンサートにおいて、まず結実します。当日の模様についての記憶は・・・

 断片的に浮かぶ光景はあるけどね・・・。

—会場は満杯だったよね。予想以上に集まった、という感じ?

 そうだね。これだけ来るなら、浦和も捨てたもんじゃないな、と思ったな。でも蓮実さんの講演の内容とか、全然覚えてないな・・・。レコード・コンサートとはいえなんだかワサワサ忙しくて、落ち着いていられたわけじゃないから。

—2ヶ月後に玉蔵院でライヴ・イヴェントを開くのは、この「魔法のランプ」で手応えを感じたから、ということになるのかな。

 そうだろうね。でも玉蔵院でやるっていうのは、デモとか集会とかの延長線上につながってるわけだよ、自分の中の話としては。それにレコード・コンサートに集まった顔ぶれは、多くは違ってたかもしれないけど、玉蔵院に集まってデモとかで顔を合わせる連中と重なってもいるわけだし。

 とにかく少なくとも俺の中では、たまたま音楽という手の届くテーマで始めたというだけで、新しく別のことを始めたという意識は全然ないんだよね。玉蔵院という場所、セッティングは同じで、乗っかったテーマがロックだっただけ、というか。

 もちろん、70年安保が終わったという虚脱感は、俺の中にもあった。ただそれまでは、日常から非日常に、デモみたいな極限の状況に向かって収斂していく、例えば小田実が「人間の渦を作れ」とか言って、70年安保なら70年安保っていう一つの焦点に向かっていく時代だったわけだけど、焦点って言うのはさ、横から見れば、そこを過ぎれば必ず広がって行くわけだよ。俺少し写真もやってたから、そういう図のイメージが明確にあって、だからそれを過ぎて、これからは拡散の時代になって行くんだなっていう意識が、明確にあった。個々それぞれ自分自身のところに戻りながら広がっていくんだろう、これからは日常に戻るんだろう、とはっきり思ってた。

—滝口君の戻る所は・・・

 俺の場合、自分に戻ってみると、政治の本とかは、資本論とか、読んでもいっこうにわからないし、最初の5ページぐらいで嫌になっちゃうわけだ。次のページ行くと、前のページに何書いてあったかもう覚えてない、みたいな(笑)。でも、少なくともロックのレコードについては、膨大な量を聴いていても全部思い出せる、と。まだいくらでも聴ける、と。ヘーゲルじゃなくてジミ・ヘンの話だったらいくらでもできる、これは嘘いつわりなく自分のものだって、そう言えるものとしてロックがあったわけだ。

 あと、やっぱりもうひとつ、ウッドストックのイメージはあったよね。ロックで集まって何かメッセージを発することはできるじゃないか、と。デモとか集会みたいな、殺伐としたんじゃなくてさ(笑)。それで変な話、よく知らない活動家が死んで、その追悼集会で野音にあんなに人が集まるんだから、ジミ・ヘンやジャニスで浦和で追悼集会があったって何もおかしくない、そういう感覚があったよね。

—玉蔵院のイヴェントの内容はどうやって決まったのかな。バンドのセレクトとか・・・

 メインのブルース・クリエイションは蓮実さんが選んだんだよね。

—蓮実さんが好きだったわけ?

 どうだったかな。蓮実さん日本のバンドで好きなのなかったから(笑)。でも評価はしてたからこそでしょう。

—あの時点でのビッグ・ネームでもあるよね。

 そうだね。渋谷のジャンジャンに彼らが出演してる時に、蓮実さんが交渉に行って帰ってきて、「ギャラは1万2千円で了承してもらった」、と話してたのを覚えてる。でも当日のバンドの演奏とかは全然覚えてない。のちに安全バンドで出かけて行ったコンサートの事はけっこう覚えてるんだけどね、主催者側じゃないから。卓(ミキサー)の所に座って、コンサートを俯瞰できたし。だけど浦和のコンサートに限っては、自分がどこにいたのかすら思い出せない。

—この玉蔵院のあと、翌年5月15日に「ロック・タワー」っていうレコード・コンサートを開いてるけど、これは初めは、引き続きライヴ・イヴェントになるはずだったんだよね。URC初の屋内ライヴ・イヴェントとして。

 できたばっかりの浦和市民会館に、「コンサート室」っていう100人ぐらいのスペースがあるっていうんで、そこでなら金もかからずやれそうだってことでね。エム、頭脳警察、成毛滋とか呼ぶ予定だった。でも実際には、そのスペースは「コンサート室」とは名ばかりで、防音も何もなくて、同じ階の他の部屋に音が漏れちゃう構造でさ。まともなバンドの演奏なんてとてもできないことがわかって、レコード・コンサートに切り替えた。

—ポスターには「バンド演奏」という告知があるけど。

 そんな場所で名の通った「プロ」バンドには頼めないけど、アマチュアなら小さめの音の演奏でやれるかも、という考えで。実際には、試しにちょこっと音を出してみただけで、回りから苦情の連続、それで会館のほうからもコンサート自体を「即刻中止」の要請が来て・・・俺が館長の所に謝りに行って、中止だけは阻止した。館長は、俺の長髪、髭面を見てかなり引いてたね(笑)

—こういう顔の時ね。そら引くわ(笑)

 そんな混乱のさなかに、実はエムが、こちらの連絡ミスで話が行き違って、楽器車で会場まで来ちゃったんだ。もう強行突破で「やっちゃおうか」という話にもなって、浅野君なんかもやりたがってたけど、何せ隣の部屋では年寄りが集まって俳句の会だかお茶の会だかやってるわけだし(笑)。結局断念して、悪い事をしたけど、エムには頭下げてお引き取りいただいた。

—「バンド演奏」のラインナップに「安全バンド」の名前が。

 会場には来てたと思うよ。もう出会ってはいた。俺がマネージャーになるのは半年後ぐらいだけど。

—安全バンドと滝口くんとの出会いについては次回に回すとして、ほんとだったら、この日が彼らの浦和での初ライヴになったわけだね。

ところで、ポスターによると朝9時から夜9時までって書いてあるけど、URCのやる気満々の状態を実によく表してるよね。市民会館を借りられる時間目一杯で、準備の時間と片付けの時間はどこにあるんだ(笑)。「海賊盤特集」ってなってるけど、海賊盤集めてたの?

 けっこうね。演奏堂(地元のふつうのレコード屋さん)で買えたんだよ。あと当時手伝ってくれてた中田君っていう人間が持ってたり。

—ロバート・ジョンソンなんて、当時としては渋い項目もある。あ、「椅子取りゲーム」って書いてあるけど、何それ(笑)

 やったよ、ちゃんと(笑)。賞品は、俺が持ってたマザーズの「フリークアウト」。あのアルバム、当時は何が面白いのかわからなかったから、惜しげもなくあげた(笑)

—客は集まったのかな。

 この時もけっこう来たよ。会場が埋まるぐらいは。・・・で、このスペースがダメなら、次はやっぱりホールのほうでコンサートをやるしかないと思ったんだろうな。

—すぐ、約ひと月後の6月23日に、第1回「無名バンド総決起集会」。客は・・・

 100人ぐらいかな。500のホールだからちょっと寂しかった気がする。

—でも「無名」のバンドの出演で、告知期間もひと月ぐらいしかなかったんだから、それなりの集客でしょう。出演バンドの当日の演奏はやっぱり覚えてない?

「透明人間」っていうのが良かったのだけ覚えてる。慶応のバンドだったんだけど、安全バンドのお兄さん的な音楽性というか、当時の安全バンドより洗練された日本語のロックをやってて。メンバーの浜野さんは、その後ソニーに入社して重役になったはずだよ。あと、出演者の楽屋でのジャム・セッションがすごく盛り上がって、面白かった記憶があるな。ステージよりよかったかもしれない(笑)

—この日は、安全バンド、四人囃子の浦和初登場となる、記念すべきイヴェントなんだけど、まぁこのあと怒濤のように彼らのステージを体験していくわけだから、この日の記憶もあっという間に上書きされて消えたんだろうね。で、入場無料だったわけだけど、経費的には・・・

 会場で集めたお金で、会場費ぐらいは出たっていう感じ。でも市の施設だから会場費安いんだよね。全日で2、3万ぐらいかな。後は照明は素明かりだったし、PAなんてないし。というか、PAっていう言葉すらなかった。

—まだその概念自体なくて、要するに生声だけ増幅する、ヴォーカル・アンプ止まりの時代。

 それは「玉蔵院」の時も同じだけど、ヴォーカル・アンプも含めて楽器、機材関係はバンドの持ち寄りで、その方面のレンタル代はゼロ。後は各バンドに3,000円ずつ、ギャラというか足代払って・・・。それらが経費の全てかな。

—印刷物は自前のガリ版(謄写版印刷)だから、激安だしね。とはいえ、何万かの経費はかかったわけで、それはどうしたの。

 よく覚えてないけど、当時アルバイトをやってた記憶があるから、それで何とかしたんだろうね・・・蓮実さんと一緒に道路掃除のバイトやったりもしたな。あと競輪場の審判補助員のバイトとか。レース中にコーナーとか塔の上から、フライングがないか監視する仕事で、けっこう割のいい仕事だった。

—ところで玉蔵院は野外の公園だからどのみち取りようがなかったろうけど、ホールで「入場無料」っていうのは、議論の余地なく最初から決定事項だったの?

 有料にした場合の、チケット売って回って集金して・・・っていうヒマも人員もないだろう、数万円で済むんだったら、自分たちで出しちゃった方が早いだろう、という蓮実君の指示だよね。で、皆「ごもっとも」と、何の疑問もなく(笑)

—そしてこれまたすぐ、約2ヶ月後に今度は駒場で、より大きなコンサートを開いています。「駒場サッカー場」という場所は、誰の発案だったのかな。

 たぶん俺じゃないかな・・・。後楽園球場でグランド・ファンクがやるんだし、こっちはサッカー場で行こう、みたいな。浦和球場というのもあるけど、施設としては借りるの高そうだった。

—「駒場」当日の事は・・・

 ・・・やっぱり何も覚えてないなぁ・・・。あぁ、何だかバンドにひたすら謝った光景が・・・。

—それはブルース・クリエイションにでしょ?やはり回りからの苦情とか時間の関係で、トリの彼らが演奏できなかったから。出演はニュー・ダイナマイツで終わってる。ダイナマイツは誰のセレクト?

 俺だね。ダイナマイツ好きだったから。どこでだったか瀬川さんと親しく話した事もあったんだよね。それで直接瀬川さんに電話して話して、OKもらった。

URCとドラッグ志向

—ところで改めて聞くけど、ドラッグ系はどうだったのかな、草創期のURCでは。

 全然関係なかったね。蓮実さんのインタヴューにもあったように、アルコールすらなしだよ。あなたが行ってた浦和西高まわりとか、浦和でもやってる連中はいたし、あるところにはあったよね。

—ああ、そういえばそうだ。だから入手しようと思えば別に難しくなかったわけだよね・・・にも関わらず手を出さなかったのは?

 う〜ん、個人的には、全然ゼロだったというわけでもないけどね。あるバンドのメンバーが下宿してる家に遊びに行った時に、そこの家の息子がシンナーやってて、それは身体に悪いからやめろ、どうせならこれをってブツを出してきた奴がいて(笑)、その時、この世の果てまで飛んで帰ってきたみたいなこともある(笑)。でもかかってたのがキング・クリムゾンだったせいか、あまり楽しいもんじゃなくて・・・それが大きかったかな(笑)

 どっちにしても自ら求めて、ということはなかったね。はっきりしてるのは、安全バンドのマネージャーやるころには、ひとつにはやっぱり逮捕された時のダメージを警戒してたということもある。経済的に、誰が裁判費用、弁護士費用払うんだ、そんな金どこにもない、っていう現実的な意識があったから。

—あの当時、ロックの価値として、「意識の解放」を実現する、みたいな評価の仕方があったじゃない?ドラッグも、それと一体で積極的に評価する向きもあったよね。

 別にURC内部で、皆で確認して否定してたというわけじゃないけどさ。まぁアルコールと同じで、体質的な向き不向きもあったかもしれないな。

—思うに、蓮実さんも滝口君も、それまでそれぞれ、反戦でも平和でもいいけど、現実的な運動、活動に関わってたわけだよね?いみじくもさっき滝口君は、URCを始めた時、「それまでの活動とやってることは同じという意識だった」って言ったけど、つまり「ロック」というテーマが前面に出てきても、やろうとしてることは、意識としては引続き現実的な改革のための活動だったわけで、だから「素面路線」のままだったんじゃないかな。

 そう捉えれば確かに手が出なくても不思議はないね。

—闘争が敗北に終わったからって、政治的・社会的な問題にコミットすることに挫折して、「これからは意識の解放だ」みたいに「転向」してロック、だったわけじゃないわけだから。別にドラッグの是非を言いたいんじゃなくて、ただ事実関係の流れとしてみれば、そういうことじゃない?

 別の言い方をすれば、手を出さなくても十分楽しめていたというか、充実していたということになるのかもしれないな。

…..(vol.2終わり)to be continued!…..


次回は、安全バンドのマネージャー業務を開始しつつ、全ての中心だった蓮実氏が去り崩壊状態となったURCを再建し「田島ヶ原フリーコンサート」を実現、さらに「ワンステップ・フェスティバル」などのビッグ・イヴェントにも関わって行く70年代中期の話が展開される予定です。乞うご期待!

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