URCスタート、怒涛の一年

高:『黒くぬれ!』のあと、70年10月14日の『ジミヘンの魔法のランプ』と題したレコード・コンサートで、URCがスタートします。そして同年12月に玉蔵院で、ブルース・クリエイションを呼んで初のライヴ・コンサート、翌71年5月に『Rock Tower』と名付けたレコード・コンサート、さらに6月に安全バンド・四人囃子が浦和に初登場する『無名バンド総決起集会』、そして8月には駒場サッカー場で千人近く集めた野外コンサート『フェニックス』。

・・・蓮実さんが活動されたのはここまでのわけですが、これはもう、1年にも満たない期間ですが、何のモデルもない中で、それこそ疾風怒濤としか言いようがありません。もちろん、滝口氏や、何人かの仲間はいたにせよ、中核は蓮実さんだったわけでしょう?とても「ロックは自分の一部でしかない」人間のなせるわざとは思えないんですが・・・

蓮:常にね、自分のイメージすることと、実際にできることのあいだに、どうしようもないギャップがあるんですよ。人を巻き込む力、企画力、実行力、すべてが能力不足だったし・・・

滝:蓮実さんが能力不足というんだったら、もうまわりの人間なんてどう思えばいいの(笑)。たとえばブルース・クリエイションとか、バンドとの交渉だって、蓮実さんがやって成立させてるんですよ。

高:みごとなガリ切りでのチラシやポスターの制作、論文を掲載した機関誌の発行、コンサートの企画構想、蓮実さんがほとんど一人で全部やってるわけじゃないですか。

蓮:でも、何かやればエネルギー使い果たして、すぐへたばっちゃって、自分の望むようにはやれない、っていうことが常にあったわけです。さっきも言ったけど、どうしようもないギャップがあった・・・。表層部分での「やりたい」という気持ちは強くあったかもしれないけど、でもそれはほんとの実行力じゃないんです。

バンドで歌うたってたりしたのは、あれは、そういう日頃の不如意をエネルギーに転化してたんだろうな・・・。もし歌の才能があったら、むしろそっちに行ってロックに関わったと思うけど、幸か不幸か、なかった(笑)

高:初ライヴ・コンサートとなる『玉蔵院ロック・フェスティヴァル』は、お寺の境内での野外コンサートだったわけですが。

蓮:この時は枕木を組み合わせてステージにしたんだよね。ベ平連関係のおばさんがいて、その人が国鉄関係の人に話をしてくれて、枕木を借りてきた。

高:ブルース・クリエイションのギャラは・・・

滝:蓮実さんが払った。確か1万2千円だったと思う。

蓮:そうだったかな。それはまぁ、僕にしてみれば「身銭を切った」ということだけど、でも実はこれは払うほうにも一種の満足があるんだ。お金は、もらう時だけ満足があるわけじゃなくて。物をあげたり金を出したりすれば、確かにそれらは失われていくけど、精神的には満たされていく部分があるわけですよ。

高:このコンサートをやってみて、達成感みたいなものはどうだったんですか。

蓮:ヒフティ・ヒフティというところかな。ロックなんてどこにもない埼玉の地で初めてロック・コンサートをやる、という一種のダンディズム的なおもしろさは大いにあったけど、ただロック・コンサートを企画して開くことそれ自体は、僕にとっては、それほどおもしろいことじゃないということもわかった。それはまぁ、僕の性格的な問題だろうけど。

高:性格的な問題だけですか?例えば出たバンドが、聴いていても自分にとってものたりなかった、ということはありませんでしたか。

蓮:あぁ、それはあるといえば大ありでね。

滝:蓮実さんには全部ものたりなかったんだよね(笑)。

高:当時、日本のバンドでいいと思ったものはなかったんですか。

蓮:まぁあまり言いたくないけど、日本語の歌は聴きたくないのね、ほとんど。ストーンズの曲なんかは、英語のクッションがかかるから歌ったりもできるけど、それでも、意味を考えたら真顔で歌えるものじゃないぐらいで。心に高ぶるものがあるから歌う、っていうこと自体、どういうもんかと思ったりもするし(笑)

高:羞恥心がたりないんじゃないか、みたいな?(笑)

蓮:そうそう(笑)。でもそれは僕自身の限界で、要するに音楽的なセンスがあまり満足に備わっていないから。だから、音楽とはごく限られた形でしか関れない・・・。例えば、初めて聴く曲なんて、常に全然わけがわからないわけ。何回も何回も聴いて、やっとわかっていくというか。

「Get Off Of My Cloud」みたいな曲だけは別だけど、ストーンズですらそうだった。だからあらかじめ、そのバンドがやる曲をよく聴いて知ってないと、滝口君と一緒に行ったFire&Water(=71年、フリーの来日公演)だって、面白さ全然感じなかったし。その場でわかる、ということができない。

高:じゃ、コンサートの音楽的内容よりも、ひたすら浦和にロック・コンサートを出現させることだけに意味を見い出していた、と・・・

蓮:あぁ、それはもう、最初からそのことにだけは、はっきり意義を見ていた。

高:次に開いた『無名バンド総決起集会』のネーミングは、蓮実さんですよね。

蓮:これは、はやりだった政治分野での「○○総決起集会」のパロディだよね。政治集会の場合は、何らかのプラスとプラスの言葉を組み合わせようとするわけだけど、総決起集会という、プラス価値の言葉に「無名バンド」というマイナス価値の言葉をぶつけたわけ。半分をマイナスに取替えるというのはパロディの常套だけど、これはコピーとしてはまぁまぁ、おもしろかったかな。

高:「無名バンド」って、我々は今でこそ馴染んじゃってるけど、ふつうは「アマチュア・バンド」ですよね。無名バンドっていう命名でぶち上げること自体がすごい。

蓮:これは僕の中では革命の「めい」と語呂合わせになってるのね。あまりうまくいってるとは思わないけど、「致命的ローリング〜」の「命」もそうだし。そういえばウラワ・ロックンロール・センターっていう名前も、これは滝口君だったけど、政治分野の「救援連絡センター」にダブらせて付けたんだよね。

高:『無名バンド』の時はバンドにギャラは出したんですか。

滝:足代ということで、各バンド三千円ぐらい出してたはずだよ。蓮実さんの方針で。

高:そのあとの『フェニックス』が、蓮実時代の最後であり、最大のコンサートになるわけですが。

蓮:そのころまでは、車輪が回ってたんだろうね、大きな車輪が。

高:そういえばこのコンサートは、電源はどうしたんですか。

滝:なかったから、蓮実さんが当日100mの電源コード買ってきて、サッカー場の事務所から引いた。30mぐらい距離あったんじゃないかな。「俺が買ってきたからいいようなものの、まったく皆ヌケてんだから」って蓮実さん、すごく怒ってた(笑)

蓮:よくも気がついたもんだよね(笑)。でも『玉蔵院』の時のこともあったから、思いついたんだろうね。

高:『玉蔵院』は、電源どうしたんですか。

滝:あの時は、近くの電柱に街灯があったから、そこから取った(笑)。蓮実さんの部屋から、コンセント付きのソケット持ってきてとり付けて。それを、うるさいって文句を言ってきた近くのラーメン屋の親父に抜かれたりしたな。でも小沢さん(小沢遼子=埼玉べ平連の代表を務め、71年に浦和市議にトップ当選)が「お祭りの時はもっとうるさいじゃないか!」ってすごく怒って、やりあってくれて、向こうが引き下がった(笑)

蓮:まぁうるさいって言ってくる人はいたよね。僕がどうしたかっていうと、「わかりました、音量下げさせます」って言って、ブルース・クリエーションの人に「実際には下げなくていいから、下げるフリだけやってください」って頼んでね(笑)。それでまた文句言ってきたら「いちおう下げさせたんですが」って応えて、そんな感じで通した(笑)。

そういえば「フェニックス」っていうタイトルも、会場(駒場サッカー場)のすぐ裏に焼き場があったことに掛けて付けたんだよね。

高:えっ!あぁ、そういえばあそこは・・・。それで不死鳥かぁ!灰から蘇る・・・気がついてなかった(唖然)

滝:単にかっこいいイメージを持ってきたわけじゃなかったんだ・・・俺も知らなかった(呆然)

関係なかった「ウッドストック」

高:ところで蓮実さんが関わったコンサートは、すべてフリー・コンサートだったわけですが。

滝:それについてはね、なんでフリー・コンサートだったのか、ということを、僕は改めて蓮実さん自身の口から聞きたい、とずっと思ってたんですよ。それはURCにとっての伝統というか、ある種トラウマといっていいものになってるんだけど(笑)

蓮:あぁ、それは僕の「かたくなさ」が関わってるとも言えるわけだけど、理由は単純で、そりゃお金のやりとりっていうのは、喜びもあるだろうけど、僕はそのことに意味を認めないってことなのね。・・・お金に限らず、ふだん人々がやっている物や言葉のやりとり、コミュニケーションっていうのは、意味もあるけれども、実際つまんないものも多いわけで、やりとりなんてしたってしょうがない、むしろやりとりなんてすべきでないものもある。

フリー・コンサートというのは、そういう拒絶の表現というか、やりとりする意味のあること、ないことの規準を、普通じゃ考えられないくらい厳しく設けた結果というか。僕は、つまんない話、どうでもいい話を5分聞かされるだけだって拒絶したい人間で(笑)、だから単に僕の性格的な「かたくなさ」、狭量さによるものだったとも言えるんだけど。

高:お金が「やりとりする意味のないもの」だというのは・・・

蓮:まぁ、実際に世の中で生きてれば、お金をためるとか、お金をもらうとか、財産を作るとかいうことに生きがいを感じるわけだよね。また、何かやった時に人からお金をもらうってことは、おそらく嬉しいことなんだと思う。自分が評価される、っていうことで。もらえばもらうほど自分が評価されたと思える、というふうに。でも、それは錯覚だと思う。僕はそれをズバリと切っちゃうわけ。金をもらったって、自分の価値に付け足されるものなんて何もない、というふうに。

それだけじゃなくて、金のやりとりで喜びがあるなんて、どうかしてる、と。それを徹底させると、ポル・ポト時代に帰っちゃうかもしれないけど(笑)、要するに純粋性に凝り固まることを選んだわけ、凝り固まることができる話なんだから。ただ、大きなことをやるにはやっぱりお金は必要だし、単に僕にはそれを操る能力がなかったってだけで、潔さと、無能性とが、あくまでも常に裏表の関係としてあったね。

滝:お金は、全否定されるものとしてあったわけじゃないんですね。

蓮:そう。この現実世界で、お金のやりとりということを、自分じゃうまく位置付けることができないっていう、能力的な問題もあった。こちらにそういう器量がないから、やれないんだったらやれないで、そんなところでみっともないことになるぐらいだったら、引き下がってしまえ、と。

さっきも言ったように、ほんとうは、もしなれるものなら煽動者になりたい、それがだめなら一段下がったところで革命家、それもだめなら政治家になりたいっていう欲求しかなかったんだから、人間と世界を動かす力を持つ金というものを、もし操ることができるんだったら、そりゃ徹底的にやったよ。でもその能力がなかったから、下がるところまで下がって、自分の同一性を確保しておこう、と。

お金がかかるんだったら、お金もらってもいいはずだよね。ただ、そうすると、自分のやったことの意味の一部が、世間の一般的な価値の中に吸収されて取り崩されるという、そういう気がした。つまり、誰だって何かやったら、自分なりにやったことの意味を確保したいわけだけど、でもお金をもらっちゃうと、それが確保できなくなるという気がしたんだよね。

だから、ひたすらそれを丸ごと確保するためのフリー・コンサートで、そのためなら人の事情なんて知っちゃいない、という、僕のエゴイズムによるものだったとも言えると思う。そういう勝手な側面は、聞かれりゃいつでも認めるつもりだった・・・誰も聞かなかったけど。

滝:誰もつっこまなかった(笑)

蓮:聞かれもしないのに、自分から言うことはしなかった(笑)。・・・僕の生活は、まるで単体人間というか、女性関係も男性関係もゼロで(笑)、僕なりによけいなものをやりとりしてこなかったわけで、そういう意味では、これでもスジを通してきたつもりだけど。

高:『フェニックス』は71年ですが、もちろん規模は違うものの、野外フリー・コンサートということでは、69年の「ウッドストック」への憧れみたいのはなかったんですか。

蓮:ウッドストックは、コンサートやっていく運動にとっては、当時合言葉みたいにしてあったよね。ただ、僕自身には関係なかった。発想の外だった。ウッドストックがあろうとなかろうと、さっき言ったような個人的な理由で(笑)、僕にはフリー・コンサートしかできなかっただけだから。

だいたいロックって言っても、僕は結局ストーンズ以外はさほど興味なかったし。あとは滝口君に紹介されたブルー・チアーぐらいで(笑)

高:ウッドストックはストーンズ出てませんしね(笑)。

浦和ブルックナー協会

高:ところで蓮実さんの時代、一つのコンサートが終わった後、総括的なミーティングみたいのはやってたんですか。

蓮:やらなかった。コンサートの前日は準備で結局いつも徹夜になったから、当日はもう何がなんだかわからなくなってたし。

滝:疲労困ぱいで、ミーティングどころじゃなかったな。

高:終わったら、次までそれっきりということですか。じゃ、終わってから打ち上げで騒ぐとかいうことも・・・

蓮:なかったね。

滝:そもそも金がなかったからねぇ。酒買う金あったら、バンドのガソリン代にでも回してたよ。だいたい「打ち上げ」という言葉自体がなかった(笑)。だからどっちかというと、「YMCA」的・・・

高:ドラッグどころか、アルコールすら入らない・・・

蓮:健全娯楽(一同爆笑)

高:URCでの活動を終えて一年後、今度は「浦和ブルックナー協会」を設立されますよね。

蓮:結局ロックを聴くのがくだらなく思えるようになってきて、いっさい聴かなくなったんだよね。ロックで集まる連中に持ってた幻想も、実際の姿が見えてきて崩れていって。そういう時に、よくしたもので、たまたまブルックナーと出会って、72、3年にクラシックを聴き始めた。ただ、ルナティックで歌うことは続けてたから、ロックとの関わりが全部なくなったわけじゃなかったけど。

高:「ブルックナー協会」は、どんな活動をされてたんですか。ガリ刷りの分厚い機関誌を見たことがありますが。

蓮:演奏会のフィルムとレコードで、コンサートをやったくらいかな。その後「日本ブルックナー協会」というのができたけど、こちらのほうが先で、日本最古のブルックナー協会(笑)

高:ブルックナーは、どこに惹かれたんですか。

蓮:僕は重いものが好きなんだよね。ストーンズも重かったし、ジミ・ヘンも重い曲が多かったし。これはそうそうあるものじゃなくてね、例えばバディ・マイルスがいくらリキんでドラムたたいても、音楽自体が重くなるっていうことはないし。あぁそうだ、ブルー・チアーも重かった(笑)

高:あれは物理的にも重かった、ドラマーのスティックが(笑)

蓮:ブルー・チアーのセカンドアルバムに入ってた「Satisfaction」のカヴァー、好きだったな。

高:ただ当時けっこうありがちだった「ロック=解放の音楽」「クラシック=抑圧的な音楽」という観点からすると、一種の「転向」ということになりますね。

蓮:僕が好きになったクラシックの演奏というのは、とりすましたような演奏じゃなくて、それこそストーンズやジミ・ヘンのステージにも負けないような、重いものだった。だいたい人数からしてクラシックは100人前後のメンバーがいるわけでしょ。それを、一人のとんでもない指揮者が指揮するわけ。

僕はカラヤンなんかは聴く気がしないけど、フルトベングラーとか、怪物めいた指揮者がやると、トゥッティって言うんだけど、オーケストラ全員が一斉に音を出して、それでティンパニがダダダダ!ってやったりすると、これはもう凄まじいものがある。ちょっとロックじゃそこまで実現できないような、すごい事態を生み出すわけ。僕が聴くのはもっぱらモノラル時代のものだけど、そういう中にはほんとに凄いものがある。

ストーンズの絶対性

高:当時、蓮実さんがURCの機関誌に自分の好きなグループを書いてるんですよ。それによると、一位がストーンズ、ニ位から四位は入れる気がしなくて、五位にジミ・ヘン。あとは、そのブルー・チアーやツェッペリン、マザーズ・オブ・インヴェンションなんかが出てきてたのを読んだことがあります。

蓮:マザーズは、それはちょっと気どって入れたんだろうな。実際は面白くないよね、あれ聴いてても(笑)。何か面白いものがあるんだろうと思って努力して聴いてたけど、最後まで面白くなかった(笑)

高:ストーンズについては「ジャンピング・ジャック・フラッシュって何だ?」という歴史に残る一大評論を書かれていますが、ジミ・ヘンについても、やはりかなり本格的な一文をものにされています。『ジミヘンの魔法のランプ』を開くにあたって書かれたようですが。

蓮:いや、全然覚えてないな・・・。あぁ、それ向こうの雑誌の文章を僕が訳したやつのこと?

高:それは「Life」誌に載ったジミ・ヘンのインタヴュー記事のことですね。それもあるんですが、それとは別に書き下ろしで・・・。ここに持ってきてありますが。

蓮:・・・あぁ、これか。ちょっと読む気しないな・・・「キャンプ」なんて言葉使って・・・思い出したくないね、恥ずかしくなるから。まぁ何が自分にできることで、何ができないかは、やってみないとわからないことだからね、しかたないが。

高:でも当時、例えばキャンプという概念を持ってきてロックを論ずるということ自体が、かなり稀有な批評性を持っていた証だと思います。

蓮:まぁ、僕は、ほかの分野との関わりで論ずるということは、少しはできたかもしれない。高校生か、浪人のときに、ストーンズとゴシック建築を並べて論じたこともある。「現代のゴシシズムを求めて」っていう感じで。ストーンズと、一番強くゴシック建築のイメージを感じさせる、バルセロナにあるサグラダ・ファミリア教会を並べて論じようとして、それだけじゃなくて、日夏耿之介の詩にからめて書こうともした。彼の詩は、やたら難しい漢字使って、日本語の詩としては一番難しいものだけど、僕がおよそ詩というものに出会った、最初の詩人でね。

そういった着眼は面白いものだったと思うけど、ただ、いい文章には書き上げられなかった。

高:改めてお伺いしますが、ストーンズは、蓮見さんにとって何において、それほど群をぬいて最高だったんですか。

蓮:自分の美学的・芸術的な志向に合ってたんだろうね。具体的には、ストーンズの歌っていうのは、楽譜を見て歌えるっていう類のものじゃなくて、変化が独特というか、簡単には歌いこなせないっていうところに魅力を感じてたんじゃないかな。

これは後々、最近になってもよく考えるんだけど、「Satisfaction」なんて、あれは単純な曲なんだけど、でもえらく重いものがまとわりついている。ああいう曲がどうして、多くの人に聴かれるのか、不思議な気がする。

高:ストーンズはどのあたりまで聴かれていたんですか。

蓮:「Let It Bleed」かな。

高:その次の「Sticky Fingers」について書かれた文章が残ってますが。続く「メイン・ストリートのならず者」は聴かれましたか。

蓮:いやほとんど聴いてないと思う。でも、どっちにしても、いつだって一番好きなのは「Big Hits」だった。僕にとっては、ジミ・ヘンだって「Smash Hits」にいい曲は全部入ってるっていう感じ(笑)

高:一方での自分の政治的な変革志向、革命志向との兼ね合いではどうだったんでしょうか。どこかでその代替物的な存在たりえたんでしょうか。

蓮:ストーンズのやることに期待は持ったわけだよね。これはファンなら誰でもそういう側面はあると思うけど、自分と同じような思いを、思い描いてくれるんじゃないかと。でも、ストーンズは非政治的な道を歩んだわけで、例えば「Street Fighting Men」っていう曲なんか、タイトルからは、新左翼的な、街頭で激しくやるような印象を受けて惹かれたけど、歌詞を読んでみれば、「俺たちに何ができるんだ、何もできやしない、ロックやるぐらいしか」っていう話でね。それはちょっと、正直言って残念だった(笑)

でも考えてみれば、自分だって同じような道をたどってきたのかもしれない。

高:いちばん最初の『黒くぬれ!』のレコード・コンサートのポスターに、「協賛/国際反ビートルズ協会」と入れてますが、ビートルズはどこが気に入らなかったんですか。

蓮:大多数に受け入れられてるっていうところ(笑)

高:それだけでもう、ストライキ!(笑)

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