1967〜69
●1967年秋@春日部高校文化祭
URC創設者ともいうべき蓮実研一、春高祭に登場した高校生バンドが演奏するストーンズ・ナンバー「Get Off Of My Cloud(ひとりぼっちの世界)」でロックと出会う(本人は浦和高校)。
●1969年9月12日(金)@東電サービス・センター
『黒くぬれ!』レコード・コンサート
蓮実が主宰する「致命的ローリング・ストーンズ中毒者同盟」初のイヴェントが開かれる。
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◎1969.9.12(fri)◎ 『黒くぬれ!』レコード・コンサート
ウラワ・ロックンロール・センター(URC)の前身とも言うべき「致命的ストーンズ中毒者同盟」が主催したイヴェントのポスター。
浦和駅の近くにある、東京電力のビルの狭い一室が無料で借りられたのを利用して開かれた。ポスターに書かれたプログラムによれば、クリーム、ジミ・ヘン、ビートルズが第一部、第二部がストーンズ、第三部がリクエスト・タイムとなっている。
「中毒者同盟」といっても、実態は主宰者でありURC創立の中心人物、蓮実研一が一人で名乗ったものである。当日は彼の名調子のDJが聴けたはずだが、会場には音響設備など何もないので、URC創立に参加する滝口修一(のちに安全バンド・マネージャー)の家からパイオニアの家庭用セパレート・ステレオ・セットを持ち込んだ。
蓮実は特にレコード蒐集家というわけではなかったから、彼の友人・知人が持ち寄ったレコードも大いに活用されたようだ。
そうした人間関係は、埼玉べ平連や党派関係のデモや集会、あるいは県立埼玉会館の建物の一角にあったオープン・スペース(設置されていた照明の姿形にちなんで「くらげ」と呼ばれていた)で築かれたものだった。「くらげ」には、日頃から活動家だけでなくドロップアウト気味の青少年がたむろしていた。一、二度だったが、私も訪れてギターを弾いて何やら歌った覚えがある(笑)。
ともあれ、レコード・コンサートとはいえ、この日が、浦和において(恐らく埼玉県全体においても)初めて自覚的なロック・イヴェントが開かれた日であったことは間違いない。そしてこのほぼ1年後に、ウラワ・ロックンロール・センターが発足することになる。
この日発行されたリーフレットの文章の見出しは、「君、黒くぬりたいとは思わないか?」というものと「ブラック・パンサーがやってくる!」だった。黒はアナキストのシンボル・カラーであり、当然蓮実はその意味もかけていただろう。また後者は、埼玉べ平連が10月に埼玉会館大ホールでブラック・パンサー党員の講演会を開いたことを指す。当然こちらも黒色が象徴であり、蓮実の中では「Paint-It Black〜アナキズム〜黒豹党」の三位一体状態が沸騰していたと思われる。
※上記リーフレットについては、こちらを。
リーフレットの表紙は、ミック・ジャガーのインタヴューの引用。後援のところ、こちらには「歌謡曲撲滅委員会」なんて架空団体名が(笑)。
●1969年10月上旬@埼玉会館大ホール
『ブラック・パンサー講演会』(主催:埼玉べ平連) 前月の『黒くぬれ!』で配付されたリーフレットでは、ブラック・パンサー党の闘士をメインにアメリカのSDSやドイツSDSの活動家も呼ぶという、この国際的な集会が開かれることへの衝撃が語られ、そのレコード・コンサートも「来るべき黒い秋に向けての最もささやかな第一歩」と位置付けられていた。
●1969年11月下旬@埼玉大学むつめ祭
『乞食の晩餐』レコード・コンサート
埼大生となっていた蓮実が、数十枚のロックのレコード・ステレオ・毛布を教室に持ち込み、学園祭に参加する形で開かれた。集客はあまりなかったようだが、5日間泊り込み・ぶっ通しの企画だった。 タイトルは、もちろん前年にリリースされたストーンズのアルバム「Beggars Banquet」からとられているが、このイヴェントが「致命的ローリング・ストーンズ中毒者同盟」名義だったのかどうかは不明。
1970
●1970年10月14日(水)@東電サービス・センター
≪vol.1≫ 『ジミ・ヘンの魔法のランプ』 ジミ・ヘン追悼レコード・コンサート 70名ほどの参加者を得たこのイヴェントにおいて、ウラワ・ロックンロール・センターが発足、URCの歴史がこの日から始まる。発足時のメンバーは蓮実を中心に4名。
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◎1970.10.14 (wed)◎ ジミ・ヘンの魔法のランプ
ポスターには「ウラワ・ロックンロール・センター結成のアピール」という文言がある。前年の「黒くぬれ!」同様、浦和駅近くの東電のビルの貸しスペースを借りて開かれた、このジミ・ヘンドリックス追悼レコード・コンサートが、URCの歴史の第一歩だった。
この創立時におけるスタッフは、中心人物である蓮実研一に加えて、滝口修一、山本純、蒼ワタルの4名。ジミ・ヘンが逝ったのは、ほぼひと月前の9月18日だが、突然の訃報にやりきれぬ思いが、URC結成への気運を決定的なものにしたのだろう。
当日集まった客は70名ほどで、URCのメンバーがDJをしながら次々とかけるロックのレコードを聴いた。用意したパイプ椅子が足りずはみ出た者は、フロアに座り込んだり寝転がったり、あるいは後方で立ったまま聴いていた。 音響装置は、再び滝口所有の家庭用ステレオ・セットが持ち込まれた。音量的にはものたりなかったはずだが、しかし学生・高校生を中心に集まった参加者の熱気は極めて高く、「趣味の集い」といった感じではまったくなかった。 それは、音そのものも含め、ロックの情報を得ることが非常な困難を伴った時代の飢餓感ゆえだろうし、そして何よりも、ロックをキーとして自分や世界を変革できるという期待や幻想が、後の時代とは比較できない形で激しくあったがゆえでもあろう。 この時、後に「Do What You Like」と名付けられる機関誌の第1号が配付されている。わら半紙/ガリ刷り/B5で18ページあるが、うち11ページは蓮実さんの論文で、中でもびっしりと細かな文字で7ページに渡って書込まれた「ジミ・ヘンと魔法のランプ〜ジミ・ヘンドリックスについてのノート」は力作であり、御本人の承諾が得られれば、後日内容をupしたいと思っている。
ところで管理人はこの時高2で、まだ客として会場にいたのだが、ストーンズのライブ盤「Get Yer Ya-Ya’s Out」から「悪魔を憐れむ歌」がかかり、「スタジオ盤と全然違うなぁ」とちょっと拍子抜けしたのを覚えている。
ポスターにはそのレコードが「日本未発売」と書いてあるが、メンバーの一人が近くのレコード屋(たぶん今はなき「演奏堂」)で買ってきて会場に駆け込み、出たばかりの新譜として勇んでこのレコードをかけたような記憶があるので、当日には日本盤が発売されていたのだろう(浦和では輸入盤は買えなかった)。
集まった70人の内、10人ぐらいは知った顔だったと思うが、あとは知らない人間で、にも関わらず、「ロックを選んで集まった者たち」としての、つまり「世の中にとっての異物を選んだ者たち」としての、選民意識的連帯感があったように記憶する。
別に「強烈に」というわけではないし、その連帯感にいかほどの意味があったのかはともかくとして、しかしほとんどの人間は、単に「ジミ・ヘンのレコードが聴きたい」というような具体的な理由だけで来たのではなかったはずだ。事実、このイヴェント終了後蓮実は、個々のレコードの感想ではなく「ロックとは何か」という問答を綴った手紙を、当日の参加者から何通も受け取ることになる。
※ポスター下端には、「協力=麻薬撲滅運動推進協議会浦和支部」というクレジットがあるが、こうしたシャレのセンスも、蓮実のもの。
前年の「黒くぬれ!」も平日だったが、このイヴェントの「水曜日の午後1時から」という設定も同様で、10/14は休日ではないし、どうなってるんだろう? それにしても最後の行の「結成のアピール」というのは・・・どうみても政治結社的(笑)。
●1970年10月 『シタデル』開店
9月1日に着工され、埼玉べ平連およびその関係者によって、浦和駅東口徒歩3分の所に建設された、べ平連のHPによれば「反戦スナック」。蓮実が積極的に関わったことは、店名が例によってストーンズの曲名「Citadel」(砦、最後の拠り所の意)からとられていることからもわかる。 URCのメンバーはこの店を「ロック喫茶」と呼んで、翌71年2月25日の不審火による焼失まで、入りびたってロックのレコードをかけまくる。
11月のプログラム
●1970年11月20日(金)〜23日(月)@埼玉大学むつめ祭
≪vol.2≫ 『ロックンロール・ダンジョン』
69年の「乞食の晩餐」と同じく、学園祭中の埼大の教室を使って、「ロックLP100枚!ゴーゴーパーティ!」といううたい文句と共に、4日間泊り込み・ぶっ通しで開かれた、URCのイヴェント第2弾。ダンジョン(dungeon)というのは、天守閣あるいは地下牢という意味。 今回はレコードをかけるだけでなく、「アンプや楽器を用意するので演奏したい人は自由にどうぞ」という企画も盛りこまれていた。その告知のチラシは限定でわずか50枚だけ作られ、京浜東北線の車中を歩きながら「来そうな奴」(長髪とかジーパンとか)を蓮実が選んで、直接手渡すという形で配付された。 そのチラシの一枚が、ルートは不明だが、四人囃子の前身であるザ・サンニンの手に渡って彼らの興味を引くこととなり、浦和の街外れにあって交通の便も悪い埼大に、わざわざ杉並方面から、まだ高校生だった岡井大二と中村真一がやってくることになる。 彼ら二人に、居合わせたベーシストを交えて始まったセッションで(この日はザ・サンニンのもう一人のメンバーである森園勝敏は不参加だったため、中村真一がギターとヴォーカルを担当)、彼らの演奏のクオリティの高さにURCのメンバーは驚愕。急遽ろくに来客のない教室を出て、キャンパス中庭に機材を運び、野外ライヴを日没まで敢行している。 四人囃子との現在にまで続く関係が、この時に始まった。蓮実の究極のピン・ポイント宣伝が、URCにとんでもない大きな果実をもたらしたわけである。
●1970年12月13日(日)@浦和・玉蔵院
≪vol.3≫『玉蔵院ロック・フェスティヴァル』 URC初のライヴ・コンサート。浦和市の真ん中にある玉蔵院というお寺の境内を借りて開かれた。ブルース・クリエイションをメインに、「ミキシング・マシーン」、四人囃子の前身「ザ・サンニン」が出演。寒風の中数十名の聴衆を集める。
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◎1970年12月13日(sun)◎ 玉蔵院ロック・フェスティヴァル
このコンサートがURCにとっての初の正規のライヴ・コンサートであり、野外イヴェントであった。この日浦和の、埼玉の空に、恐らく初めてロックのサウンドが鳴り響いた。 「玉蔵院」(「ぎょくぞういん」と読む)というのは浦和の街の真ん中に古くからある小さなお寺の名前で、その境内で開かれたこの企画には、ブルース・クリエイションをメインに、地元(熊谷)のアマチュア・バンド「ミキシング・マシーン」と、四人囃子の前身ともいうべきバンド「ザ・サンニン」(会場での表記は「座・三人」)などが出演した。
ステージは、前日に知人を通じて国鉄から線路の枕木を借りてきて、URCスタッフと協力者の手で夜までかかって組まれたが、組み終った直後から激しい雨が一晩中降り続け、一時は開催が危ぶまれるほどだった(当日配付する機関誌を徹夜で制作中の蓮実の、豪雨に焦る様子が、その機関誌に書きとめられている)。
だが夜が明けるとようやく雨は止み、予定通りにコンサートは開かれた。機材類は出演バンドやURC関係者の持ち寄りで、電源は、驚くことに近くの電柱の街灯のソケットから(勝手に)引いて間に合わせている。
上に掲げたB4のポスターは1,100枚制作され、別デザインのもの500枚を加え(すべてガリ刷り)、駅頭での手配りや店置き、電柱に貼り出しての宣伝が行なわれた。むろん「シティロード」も「ぴあ」もまだなく、宣伝というのは人力に頼る所すこぶる大だったところ、ラジオの深夜放送の番組内での告知が4、5回流れている(当時、若者向け深夜放送は、アマチュアのイヴェントに協力的な対応があった)。
この日配付された前掲の機関誌(第2号)には、初めて「Do What You Like」という誌名が付されている。この命名は滝口によるもので、BLIND FAITHの曲名からとられた。内容としては、蓮実の「70年冬期決戦に向けて」という文章を初め、各スタッフのこのイヴェントへの決意表明ともいうべき原稿が並んでいる。
ところで「ザ・サンニン」は、この日メンバーの一人森園勝敏は病欠で(前月の「ロックンロール・ダンジョン」にも彼だけ来なかったし、病気療養中?)、中村真一と岡井大二の2名に急遽「ミキシング・マシーン」のベーシストを加えてのセッション的な演奏だった。そんなわけでこの日も中村真一はギター&リード・ヴォーカルを担当している(Photo 参照)。
つけ加えておくと、安全バンドはまだ結成されていないので、この日は当然出演していない。
※このポスターのみ、完全な形ではオリジナルが残っておらず、印刷物からのスキャンになるため画質が荒いです。
1971
●1971年5月15日(土)@浦和市民会館8Fコンサート室
≪vol.4≫ 『ロック・タワー』レコード・コンサート 午前9時から午後9時までという、あふれる意欲が伝わってくるような、会場の使用可能時間をめいっぱい使ったレコード・コンサート。海賊盤特集以外に「特別講演」2本、ガラクタ交換、密室での12時間の気分転換用か「椅子取りゲーム」まで(笑)、テンコ盛りの内容だ。ロバート・ジョンソンやマディ・ウォーターズなど、ルーツ系のレコードもメニューに入っている。 会場の浦和市民会館(現さいたま市民会館)は4月にオープンしたばかりで、8階の「コンサート室」を初めて使ったのはこの日のURCだった。チラシ(リーフレット)には、本来は成毛滋やエム、頭脳警察を呼んで開くはずの企画が、「コンサート室」と名付けられた会場が名ばかりのもので、ロックには使えず流れたという経緯も書かれている。 とはいえ、リーフレットには「バンド演奏」とも書かれており、「安全バンド」の名前も見えるが、やはりまともに音を出して演奏することはできなかったようだ。したがって彼らの本当の浦和デビューは、翌月の「無名バンド総決起集会」に持ち越されることになる。 そういえば後年、バンド演奏どころか、レコード・コンサートでも「ロックには貸せない」と言われて、ひともめしたことがある。「文教都市」というのが浦和の売りだったのだが、その中身はと言えばその程度のものなのだった。
flyer(leaflet)
●1971年6月23日(水)@浦和市民会館ホール
≪vol.5≫『無名バンド総決起集会』 「田島ヶ原野外フリー・コンサート」と並んでURCの活動の基軸となった企画の第1回。このイヴェントで安全バンド・四人囃子が浦和に初登場。浦和市民会館ホールでロック・コンサートが開かれたのも、この時が初。
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◎1971年6月23日(wed)◎ 無名バンド総決起集会
前年12月の「玉蔵院ロック・フェスティヴァル」が、浦和における初の「ロック・コンサート」であり野外イヴェントだったとすれば、この「無名バンド総決起集会」は、ホールでの初のロック・コンサートだった。そして、その後のURCの活動の核となる安全バンドと四人囃子が、初めて正式に浦和に登場したコンサートでもあった。
そうした実に記念すべきイヴェントなのだが、しかし関係者の記憶はほとんど残っていない。スタッフは、10近いバンドがとどこおりなく演奏できるよう、何から何まで初体験の状況で動き回っていて、ステージなどまともに観ているヒマはなかったためだろう。
管理人もなぜかこの日は観に行っていないので、ここで具体的に書けることは残念ながら何もない・・・しょうがないのでポスターからわかることを書くと、平日(水曜日)午後1時という設定から、集客の主要な対象が高校・大学生だったことがわかる。
平日のほうが会場費が安いということもあったろうが、やはり大学生以上の「大人」がロックを聴くことなど、ハナから考えられない、少なくとも配慮に値しない時代だったということだ。
さらに、10近いバンドが出て午後1時開演ということは、まともなリハーサルは行なわれていないことを意味する。このころチューニング・メーターはもちろん、エフェクターの類もろくに存在しないから、当日バンドのメンバーは、いきなり本番のステージに上がるや、アンプに直接ギターのジャックを突っ込み、適当にチューニングをしたら即演奏を始めたわけだ。
一方このコンサートは「入場無料」であるから、バンドと聴き手のあいだを「金」が媒介することもなければ、「無名」なのであるから、知名度、人気が媒介することもない。要するに、音を出すこと、それを聴くこと、その様々な局面で、迂回する回路が極小の状態だったのが、この「無名バンド総決起集会」であった。
それは半分は否も応もない事情によるものだったが、半分は充分に意識的なものだった。その意識とは「すべてのものごとは、可能な限りダイレクトに直結されるべきだ」という意識であり、そのスタイルにこそロックの本質を見ていたのである。
「無名バンド総決起集会」は、4年後の75年、その第2回目が開かれ復活する。それは74年ごろを境に、この国のロックが急速にシステム化されていく中で、「迂回する回路が極小」の、その「原点」の再確認の必要性を痛感してのことなのだった。
●1971年8月28日(土)@駒場サッカー場
≪vol.6≫ 『フェニックス・ロック・フェスティヴァル』 蓮実氏を中心とした第1期URCの、その集大成ともいうべきイヴェント。安全バンド・四人囃子に加え、頭脳警察も初登場。浦和市の住宅街のさなかにある駒場サッカー場で開かれ、「騒音」に苦情が殺到、進行もおしたため、トリのブルース・クリエイションは演奏できなかった。
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◎1971年8月28日(sat)◎ フェニックス・ロック・フェスティヴァル
第一期URCの集大成ともいうべき野外フリー・コンサート。会場の駒場サッカー場は、隣接する駒場スタジアム(浦和レッズのHOME)とは別もので、金網フェンスとゴールを設置しただけの、芝生もない土のグラウンドだった。
真夏の炎天下、集まった700人前後の聴衆は、そのままグラウンドに座り込んで聴いていた。まだURCに参加していなかった管理人もその中の一人で、この時高3、客席右寄りの後方にいてヤジを飛ばしたりしていた(笑)
ステージ〜といっても高さ10センチもないぐらいの木の板が敷かれていただけだったが〜左手にはURC関係者が出した飲食物などの売店が2、3出ていた。けっこう繁盛していたと思う。当然売上げはこのフリー・コンサートの費用に回ったのだろう。
この時、私は安全バンドや四人囃子を初めて観ているはずなのだが、正直言って、彼らに限らず出演した個々のバンドについては、不思議なほど何も記憶が残っていない。ただ退屈した記憶はなく、集まった皆で出演バンドや主催者側を温かく見守る、という感じの、えも言われぬなごやかな雰囲気を楽しんでいた。
唯一、出演者ではっきり覚えているのは、最後に登場したニュー・ダイナマイツである。 実はこの日最後にトリとして登場するのは、前年の「玉蔵院」に引き続きブルース・クリエイションのはずだった。しかし、この日は彼らは出演していない。コンサートの進行が遅れたため、一つ前のニュー・ダイナマイツが終わった時には、既に当局の許可を受けた夜7時が過ぎてしまっていて、演奏できなかったのである。
まだ深夜というわけでもなし、もう少し時代が下れば事態は違って、30分ぐらいは延長して演奏ができたかもしれないが、しかしロックがまるで「異物」として存在していた時代である。いきなり市街地に響いたサウンドには、午後1時のコンサート開始当初より近隣からの苦情が殺到していたため、それは不可能だった。
ニュー・ダイナマイツは、日も暮れて暗くなり(街灯ないしはグラウンド用の照明がついていただけだったと思う)、途中でコンサートが打ち切られる旨の主催者側のMCや、苦情を受けて出動した警官の姿に、会場が少しざわついている中へ登場した。
曲目を覚えているわけではないが、ギターの音やヴォーカル(瀬川洋)が、この日いちばんガン!と客席に届いてきた記憶がある。客を引き込むパフォーマンスということでも、一日の長があったように思う。確かラストにハード・ブギ・アレンジの「Get Back」が演奏され、大いに盛上がったところでこのイヴェントは終わる。
ブルース・クリエイションの演奏がなかったことへの不満で、このイヴェントがネガティヴな雰囲気で終ったという印象はない。それはその盛上りに救われた所も大だったろう。
そして個人的に何よりも最も明確に覚えているのは、住んでいる家から歩いて来れるような、自分が住み暮らしている街の一角に、白昼夢のようにこんなロック・イヴェントが出現したことへの昂揚感である。それは、日比谷野音にせよ何にせよ、都内で開かれるロック・コンサートへ行った時とは決定的に何かが違う、特別の昂揚感だった。
その体験が幸だったのか不幸だったのか、今となっては複雑な所もあるが(笑)、とにかくこのイヴェントのほぼ半年後、気がつけば私はURCにスタッフとして参加していたのだった。
memo
ポスター最下段にある「演奏堂」は、浦和駅西口にあった県内最大のレコード屋で、北浦和駅東口にも支店があった。だが80年代のレンタル・レコード店の登場で、どちらも閉店してしまった。当時からあるレコード店としては、北浦和の「マルイ・ミュージック」のみが、数年前に新装も果たし今でも健在である。両店とも、よくコンサートのチケットを置いてもらったり、ポスターを貼ってもらったりご協力いただいた。
余談だがその「演奏堂」で、ロックのレコードがどうしても欲しくて万引きを重ねた、S氏という人物を知っている。もちろんCDじゃありません、でかいLP盤ですよ。何でもシャツだかセーターの下に突っ込んで犯行に及んだとか。それほどロックに熱い思いがあったというべきか、そんなリスクを犯すほど金がなかったというべきか・・・(ダメですよ、万引きは)。
このページ及びその表記について
URCが主催または協力したすべてのイヴェント、及び関連する様々な動きについて、時系列に沿って記述するページです。
※≪vol.○ ≫ の部分は、URC主催(またはプロデュース)のイヴェントの通算を意味します。タイトル部分が赤字はライヴ 、緑字はレコード・コンサート です。黒字のものはURCの主催ではなく、協力したイヴェントを意味します。
※バンド名などの表記は、ポスターなどに掲載されたものに準じます。バンド名に取消線のあるものは、告知はされたが当日出演しなかったことを意味します。