1986年8月29日〜30日

THE MAKING OF
田島ヶ原野外フリーコンサート1986

1986年開催時の準備・仕込みの模様を収めた映像です。演奏シーンはありませんが、「田島ヶ原」という場所の雰囲気が活写されています。

メモ

THE MAKING OF
田島ヶ原野外フリーコンサート 1986

◎この映像について◎

1986年のラスト「田島ヶ原」は、8月30、31日と二日間に渡って開かれた。この映像は、前日の29日に行なわれた現地でのステージ設営から、一夜明けた1日目(8月30日)の開演前までの様子を捉えている。

URC、あるいは「田島ヶ原フリーコンサート」それ自体に興味・関心のある人以外には退屈な内容であることを、あらかじめお断りしておくが、バンド、ミュージシャンではなく、イヴェントの準備にいそしむスタッフを捉えたこの映像こそは、URCそのものの姿を伝えるものと言うことになる。企画を立てたあとは要するに我々は単に裏方だから、当然、絵的にはひじょうに地味である(笑)。

もっともこの映像の真の主役は、「田島ヶ原」という場所、それ自体と言えるかもしれない。のびやかに広がる緑、さえぎるものなく吹き渡る風、そして青から紫、紅から藍へと変幻し、星がまたたき始める大空・・・この映像を観て改めて思う、「この最高の場所で最高のロックが聴きたい」というシンプルな思いこそが、何よりも我々を突き動かしていたのだと。

「なぜフリーコンサートなのか?」と疑問を持つ人も、この映像を観れば、この場所で開く限りはそれが必然的なことと、腑に落ちるのではないだろうか。塀を張りめぐらさなければ有料のチケット・システムは成立しないわけだが、こんな気持ちのいい場所に、そんな無粋なまねできるかってんだよ!・・・ただそれだけのこと。

なおこのころ、URCスタッフはほぼ全員が60年代生まれに入れ替わっている。50年代生まれの、これを書いている管理人(高沢)や、現場監督的な姿が映像に出てくるURC創設メンバーの一人、滝口修一も、オブザーバー的な参加であり、この年のバンドのセレクト、交渉などは、すべて一回り前後若返ったスタッフの手によって行なわれている。

映像にはそうした正規のスタッフ数人とともに、多くのこの日限りの無給協力者たちが写っている。頼もしかったのは、浦和に事務所を置いて独立独歩の活動を続ける劇団「どくんご」の人たちで、テント公演などで培ったとおぼしき能力、体力を提供してくれて、実に強力な援軍となった。

だが彼ら以外のほとんどは、この種の肉体労働など初体験に等しく、正規スタッフも含めみんな単なる素人であった。ケガ人も出さずよくこんなステージを作ったものだと今さらのように感心するが、70年代から続く大いなるご支援をいただいたYAMAHA、総合舞台の方々も含め、こうした多数の協力者の存在がなければ「田島ヶ原」が成立しなかったことは言うまでもない。

◎80年代「田島ヶ原」の歴史◎

80年代の「田島ヶ原」は、まずURCの一時的活動停止中に、URCの若手スタッフ有志が結成した「風船爆弾」というグループが、82年9月12日に開催しようとして台風直撃で中止(VOL.8)。スタッフは、当日コンサートを開くどころか、豪雨で水没した事務所の水をかき出していたのだった・・・(涙)

※82年の主な出演予定者は、P-MODEL、PEGMO、水玉消防団、中川五郎、マゼンダ、REAL、暗黒大陸じゃがたら。

続く83年、URCが「田島ヶ原10周年」として10月9日に企画するも、やはり台風の影響で中止(VOL.9)。この年は現地は水浸しになったものの、午後には台風一過晴れ上がったので、中止とは思わなかった客が集まってしまう事態となった。

※83年の主な出演予定者は、P-MODEL、PEGMO、ゼルダ、REAL、朴保&切狂言、吉野大作&プロスティテュート。

84年は諸般の事情で企画されること自体がなく、めでたく再び開催できたのは85年9月15日のVOL.10においてだが、しかし「田島ヶ原」の歴史上唯一雨天での決行となった。台風の影響での雨だったかどうかは忘れたが、雨量自体がさほどのことがなかったので、何とか開けたのだった。

この年については、メニューのPHOTOから入って田島ヶ原野外フリーコンサート 1985のページに、中川五郎さんのステージの模様が音源付きでUPしてあるので、そちらも参照。

1986年が8月中の開催となったのは、9月という台風シーズンに開くという無謀な伝統?に、そんなこんなでようやく懲りてのことだった(もっとも、すべて9月中に開いた70年代は、奇蹟的なことに一度も台風にも雨にもやられていないのだが・・・)。

そうしてめでたく晴天の中開かれた1986年「田島ヶ原」ではあったが、しかしのべで500人来たかどうかという1日目の参加者数は、ちょっと寂しいものがあり残念だった。とはいえ2日目は千人近い動員があり、大トリのP-MODELの時には、往年の「田島ヶ原」にも近しい盛り上がりをみせ、例によって何のトラブルもなく大団円のうちに終了している。

◎「田島ヶ原」という場所◎

実は「田島ヶ原」というのは通称で、公式の名称は「さくら草公園」であり、さいたま(当時は浦和)市営の公園である。埼玉県花の「さくら草」の自生地であることからその名がついた。

より広大な県営の「秋ヶ瀬公園」が隣接していることによって増幅されもする、その緑豊かでのびのびとした雰囲気とともに、浦和駅からバスで30分かからず(つまり東京都内からでも90分内外で)着いてしまうという、アクセスの容易さも魅力だった。

「田島ヶ原フリーコンサート」は、一貫してURCの活動の核を成していたから、こうした秀逸な場所がもしなかったら、我々の活動もたぶん早々に終焉を迎えたろうし、こんなHPが作られることもなく、また「田島ヶ原」での数々の名演が、今になって復刻されて世に出ることもなかったわけである。

「天の時」「地の利」「人の和」の三要素そろわざる所、物事の成功はないとする古人の格言があるが、「天の時」にかなうものだったかいかにも怪しく、はたまた微力な我々スタッフの「和」の力などたかが知れていることを思えば、我々にあった最も強力な要素は、何にも増して「地の利」だったな、とこの映像を観ながら今さらに思い至る今日このごろ。