その3

このページで戯れ言タレてるぐらいなら、少しでも他のページの更新を、とがんばっている間にだいぶ時間が経ち、上記のタイトルでほんとは何を書こうと思っていたのか忘れてしまった・・・。

URCがメディアにどう扱われたか、といった類いの、前回までに書いた話は実は前ふりで、タイトルにふさわしい、もっと別の話がその後に続くはずだったんだが。確かweb制作のテクノロジーをネタにした話題だった気がするが・・・。

まぁ忘れるぐらいなのであるから、どのみち大したことじゃあるまい。なので、その「前ふりの話」の続きを(しつこい/笑)。


実は、ビクターの出版部門から、89年にれっきとした単行本として出た「イッツ・オンリー・ロックンロール・ジャーナリズム」(武田徹著)という本があり、一つの章をさきつつ「浦和ロックンロール・センター物語」という文章が、巻頭を飾っていたりする。

その原稿作成にあたっては、私へのインタヴューも行なわれてはいるのだが、結果として書かれたのは、これが間違いだらけ、誤解しか招かない表現だらけの文章で・・・例えば、わかりやすいところでこんな文章。

殆ど口コミで情報を伝えていた浦和ロックンロール・センターと異なり、杉本氏*はFM浦和やTV埼玉との共同戦線を張って奮戦する。

(*杉本氏は80年代半ば浦和に登場したイヴェンター、バックステージ・プロジェクトの方)

私がインタヴューを受けたのは88年だったが、70年の発足から少なくとも86年の「田島ヶ原」までの活動内容について、たっぷり何時間も話してあげたはずなのに、何でURCが「殆ど口コミ」に頼って活動を続けていた存在として、バックステージ・プロジェクトに比較されなきゃならないんでしょうか。

私はすでに70年代に、FM浦和もTV埼玉もレギュラー出演してたことがあるぐらいで、FM浦和(正しくはNHK浦和FM)では、1時間枠で「高沢正樹のロックンロール教室」なんてあられもない名前の(爆)ロック史のコーナーを1年間続け、一方では77年の「田島ヶ原」のライヴ録音を延々とオン・エアさせたり、プレス前の音源を使った安全バンドのセカンド・アルバムの、発売前特集を早々に組んだりもした。

TV埼玉の開局時には、自社制作の若者向け番組に早速参加し、「イカ天」よりも10年早く、あんな感じのコーナーを作って審査委員長をやっていたこともある。当然URC経由のバンドも次々と出演させた。

(これは余談だが、そのコーナーで出会ったバンドで最も印象的だったのは、スターダスト・レヴューの前身で、まったく無名だった「アレレ」だった。彼らは、ラテン風味のコミカルなオリジナルを確かな演奏力で披露し、当然のごとく「月間チャンピオン」賞を射止めている)。

もちろん、バックステージ・プロジェクトの関わり方とは違うだろうし、またそこまでの具体的な事実について知らないのはかまわないとしても〜少しでも話をふられれば、さぞ自慢げにこうして話したはずだが(笑)〜しかし知らないとしたって、とにかくURCが発足後ずっと「殆ど口コミで」活動してたわけないでしょうが。

そんな怠慢こいてたら、「一人でも多くの客の前で演奏したい」と思っているバンドに面目が立ちません。

何でそんな話になっちゃうかといえば、やはり前回書いたように、「そういうストーリーが先にあって、それに目鼻をつけるための取材」だからなのだった。

要するに、立派な会社組織であり、ビジネス面にも長けたバックステージ・プロジェクトに対置するに、何だか知らんがURCを、単純にアンチ・ビジネス、反商業主義の「手作り派」(これまた前回書いた区分に置き換えれば、「ノンポリのヒッピー的な青春群像」)に仕立てる必要があったのである。

別の所では、私が「音楽は音楽として気持ちよければそれでよい」と言ったことになっているのだが、私が無前提にそんなことを言うわけはない。その発言をした時に私が付したはずの限定を、なぜすっぽり捨象してしまうのか?といえば、それも同じ必要からだろう。

あまり目にしてほしくもないしキリもないのでこれ以上の引用はしないが、一事が万事、そんな調子の不当な単純化・図式化に支えられつつ、文章の全体は、「新たな時代の旗手」対「去り行く老兵」の、感傷的な、まさに「物語」としてまとめられていく。

読者は、哀愁ただようその「老兵の末路」に、ハタと涙の一つも誘われるかもしれないが(笑)、しかしこの「物語」を読んで、URCのことがわかったような気には間違ってもならないでもらいたい。


ついでだからデータ的な面についての訂正をつけ加えておこう。

前掲の文中「セミプロ時代をそこで送ったメンツ」(そことは浦和=URCのこと)としてあげられた「有頂天」は、1、2度URCのコンサートに出たことがあるというだけで、もちろんその出会いはURCにとって貴重なものではあったが、別に彼らは浦和で「時代を送って」などいない。

同様に「バービーボーイズ」の名前もあげられているのだが、彼らに出演してもらったことはないし、どんな関係があったのか、見当もつかない・・・メンバーの一人が別のバンドで出たことがあるとか?だとしても、やはりそれは「時代を送った」というほどのものではないだろう。

これらは、URC側から針小棒大に吹聴していると思われたくはないので、指摘しておく(他にも?なバンド・ミュージシャンの名はあるが・・・)。

それから、同様にあげられている「ホーンスペクトラムの中村ゆうじ」というのは無論「中村哲」の間違い(彼は安全バンドの正式メンバーなのだから、その紹介の仕方自体、そもそも変なのだが)。
※念のためつけ加えておくが、私は、我々とは比較にならないビジネス面の才覚、シビアさを備えた「バックステージ・プロジェクト」に対して、敬意を持ったことはあっても、否定的な感情を持ったことは一度もない。

彼らについて何か言いたいわけでは全然ないし、何か言えるほど知ってもいない。誤解なきよう。


さて、例えばURCは、76年5月に、沖縄の「紫」をメインにした「May Stream」というコンサートを日比谷野音で主催したことがある。共演はスターキング・デリシャスとトミー&ファイヤー(元ガロの日高富明のバンド)だったが、その3者とも浦和での交流はまったくなく、その時が初顔合わせという企画だった。無論チケットを売って、入場料も普通に取っている。

何でそんなコンサートを東京に出かけていって開いたかといえば、いくつもの要素はあるが、何よりもロック・ビジネスの可能性を追求してみようとしたからに他ならない。またその「May Stream」に前後する数年間は、大企業であるYAMAHAが都内で主催し続けた「ロック・エリア」というコンサート・シリーズに、全面的に関わってもいる。

だがその間も、もちろんURCは、毎年9月の「田島ヶ原」や「無名バンド総決起集会」といったフリー・コンサートのシリーズを、何の変わりもなく開き続けていた(ただし、誤解されやすいが、浦和でだって普通にチケットを売るコンサートはいくらでも開いている)。

あるいはまた一方でURCは、例えば朝霞での自衛隊観閲式に反対するデモに参加し、トラック上にロック・バンドを載せて突っ込んだりもしている(80年10月。正確には、機動隊がこちらに突っ込んできたのだが/笑)。右翼の嫌がらせを受けた「反軍ヴァイブレーション」なんてイヴェントをやったこともある。

だがその「反軍〜」など2、3のものを例外として、他のあまたのURC主催のイヴェントでは、何らかの政治的・社会的メッセージを掲げたことは一切ない。ある意味で最もそうした「メッセージ」向きの設定ともいえる「田島ヶ原」のフリー・コンサートでも、もちろん、ただの一度もなかった。

要するに事態は、商業主義VS反商業主義=マスメディアVS「殆ど口コミ」=「金に厳しいビジネス派」VS「人に優しい手作り派」(笑)、といった二元論的図式や、「ノンポリ・ヒッピー青春群像」あるいは「70年代ロック=反戦」といった神話に、都合よく回収されるようなものではなかったのである。

前回書いたことをくり返せば、だからといって我々の活動が何か高尚なものだったと言いたいのではない。言いたいのは、事態は、もう少しばかりは複雑であり、錯綜していたということ、ただそれだけだ。ありあわせの「物語」の寸法に合わせて、こちらの身の丈を勝手に寸断することだけは勘弁願いたいのである。


ところで、前掲の本はもうたぶん絶版ではあろうが、しかし古本としては流通しているだろうし、それどころか、よりによってさいたま市立図書館の蔵書になっていたりする・・・(トホホ)。

おまけにそれを借りて読んだ人が、「こんな本ありました!URCのこと書いてありました!」と投書したのが朝日新聞に載ったことまであったりする(タハハ)。

今ごろここでとりあげて書いたのは、そんな背景もあったりするわけだが。

で、いきなり無理矢理このページのタイトルに話を結びつけてこの章をやっと終わらせるが、それやこれやの積年の???な体験の数々が、このHP公開へ向けて制作にいそしむ日々を、裏で支えるエネルギーの一部となってもいるのであった。

ま、ほんの一部だけどさ。早く前に書いたように「URCについてなら、これ観てください、そこに全部表現されてますから」と言えるようなHPにしなくちゃな。

05.6.15記

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