「3ポイント」は、”女性のためのコミュニケーション・フロア”を謳ったスペース(喫茶店)で、銀座マツヤ向かい側のビルの2階にあった。1階の「デイリークイーン」というソフトクリーム店の脇の階段を上がって入場、途中の踊り場に受付をおいて、1973年春から1975年末まで足かけ3年間、週一度金曜日にライヴを行った。ライヴは基本的にURCのプロデュースだったが、3pointを運営する会社、レディース・ボイスの女性スタッフとのコラボ的側面が強く、HISTORYのコンテンツの中で別建てでここにページを設けた。

◎1973.6◎

このチラシはデザイン面からはあまりupしたくなかったのだが、「銀座の奇蹟」のチラシとしては、これが最初に制作されたものであることから、採用した。

ちなみに週一回(毎週金曜日)のペースで4月13日からスタートしたこの企画の、その第一回の出演は四人囃子だった。彼らは4月から8月まで、ホームグラウンドのようにレギュラー出演しているが、基本的には3pointのブッキングは安全バンドをメインとし、最後の週をタージ・マハル旅行団が締める、というのが定型だった。

最下段の広告にある「CAOS」(カオス)というのは、池袋西武の2Fの一角で自主出版物のサポートを請け負っていたお店で、店長の川口信介さんには、URCの印刷物に関して大変お世話になった。川口さんは現在デジタル・アートの世界で作家としても活躍されており、機会があればこのHPでも何らかの形でご紹介できれば、と思っている。

◎1973.7◎

四人囃子が出演した13日は、あの「一触即発」が初演された記念すべき日である。「新曲をやります。人前でやるのは初めてなんだけど、練習不足なので間違えるかも」という森園のMCがあって始まった「一触即発」の、「お祭り」からいきなり大きく飛躍したその曲づくり、演奏の衝撃は今でもよく覚えている。その夜は、まさに「銀座の奇蹟」というネーミングにふさわしい一夜となった。

なおネーミングということでは、ふだんは「銀座の奇蹟」とは言わずに、「金曜ロック」と呼ぶほうが多かった。

下段のヤマハの広告は、URCとの友好関係から、ご好意で3pointの企画が終わるまで続けていただいた。調べればわかるが確か1ヶ月5,000円で、我々には重要な収入源となっていたはずである。何せこの企画、入場料が「飲み物付300円」なんだから(これはいくら当時でも破格の値段であった)。

◎1973.8◎

10日の四人囃子は、記録によれば「メンバーのケガなどのため正規の演奏ができず、大セッション大会になった」とある。管理人はそのドサクサにまぎれて彼らをバックに「Johnny B. Goode」を歌うという僥倖にあずかっている(笑)。

そのさい安全バンドの長沢ヒロがベースだった記憶があるので、囃子は中村真一が演奏できなかったのかもしれない。また2番が終わった後の間奏では、森園とやはり安バンの相沢民男とのギター・バトルが延々と続き、やたら長大なJohnny B. Goodeになったのだった。

最後は、URC代表兼安バンのマネージャー、滝口修一が登場して「Boom Boom」を歌い、狂乱のうちに幕を閉じるが、その形は、安バンと囃子のメンバーが顔を合わせるイヴェントでは、現在にまで続く定番となっている(なおもう一つの定番に、四人囃子のマネージャーが登場しての「Wild Thing」というのもある)。

四人囃子のバンドとしての3pointへの出演は、この月が最後。

◎1973.9◎

第3週にウエストロード・ブルース・バンドの名があるが、彼らの3pointへの出演はこの時だけである。9月16日に、浦和「田島ヶ原」でのフリー・コンサートが初めて開かれており、トリをつとめたのは彼らだったが、その流れの中でのブッキングだった。

この頃の安全バンドは、もちろん3人編成、パワー・トリオ時代だが、四人囃子が前月に「一触即発」を3pointで初演したように、安全バンドが代表曲「けだるい」や「13階の女」を初演したのも、この頃の3pointにおいてだった。それまでの「ニューロック」的な、やや冗長とも言える曲づくりから一皮むけた、引き締まったサウンドがそれらの曲で披露された時のインパクトは、やはり強く印象に残っている。

「けだるい」と「ドアをしめろ」の2曲はセットでできあがってきたと思う。「けだるい」を初めて聴いた時にアリス・クーパー的なものを感じたこと、「ドアをしめろ」で、ギターの相沢民男が、リフに合わせてガニ股ぎみに大きく足を踏ん張ったアクションがウケたことなど、まるで昨日のことのように思い出す…..というのはちょっと無理があるけど(笑)。

なお16日の「田島ヶ原」には、もちろん安全バンドも出演しており、彼らはこの月はURC関係の企画に毎週のように出演していたことになる。

◎1974.3◎

第1週のうたち&モットは、それぞれ和光大学を拠点としたバンド。うたちは、浦和でのコンサートにも何度も出演してもらったハード・ロック・バンドで、後に紀ノ国屋バンドを結成するハルトが在籍していた。

第2週、8日に出演しているダムハウスも、この頃URCの常連バンドだったが、75年に安全バンドに正式に加入する中村哲と、76年に同じく安全バンドのサポート・メンバーとして活躍する藤田義治が在籍していた。藤田義治は、そのあと77年に、細野晴臣プロデュースのアルバム「島まで10マイル」でポリドールからデビューしたホールド・アップに参加している。

第4週22日のところ、読みにくいが「初登場」「from FUKUSHIMA」と付記してあるグレープジャムは、安バン解散後に長沢ヒロが結成したHEROを経てボウイに参加する、高橋まことが在籍したバンドである。恐らく初めての東京でのライヴだろう。ツェッペリン的なサウンド志向だった記憶があるのだが、この数カ月後の郡山「ワンステップ・フェスティバル」での演奏が、今年(05年)2月にリリースされた音源復刻CDに収録されている。

下段には、いつものヤマハの広告に代わって、当時浦和で年に2、3回開いていたレコード・コンサートの告知が掲載されている。「ウエスト・コースト・サウンド大会」というのは、URCとしては珍しい趣向。

◎1974.5◎

第3週に「ブルースハウス」とあるが、これは正しくは「ブルースハウス・ブルース・バンド」。下段の浦和市民会館でのイヴェントの告知にある「ファッツボトル」も同じく「ファッツボトル・ブルース・バンド」で、勝手に略しちゃってすみません・・・。どちらも京都のバンドです。

第2週の「ジプシースネイクBB」は浦和のブルース・バンド。前月にはやはり京都のブルース・バンド「スイートホーム・シカゴ」が出演しており、この時期のURCの、強いブルース系バンド志向がうかがえる。

ちなみに、その「ジプシースネイクBB」と並んで「ジュスティーヌ」の名があるが、実はこれは管理人もメンバーだったジャンク・バンド。残っている音源を聴くと・・・こんな演奏を金取って聴かせていたとは・・・汗顔の至り・・・。

memo

※3pointの企画ではポスターは作らなかったので、ここにupしたのはすべてチラシです。制作されたチラシは全部残っていますが、デザイン的にupに耐えないものも多く、とりあえず見た目優先で(これでも)6ヶ月分を選びました。

※3pointというスペース(いわゆる「ライヴハウス」ではない)について、及びこの「銀座の奇蹟」という企画についての解説は、ひょいとは書けないものがあるので、後日のまた後日の更新に於いてになる模様。