滝口修一 INTERVIEW

URC創設の中核となったのが蓮実研一氏だったことは間違いないが、もちろん、いかに蓮実氏といえども、駒場サッカー場でのコンサートを初めとするいくつものイヴェントを、一人で成しえたわけではない。

創立時の他の3人のメンバーも、それぞれに個性を発揮しつつ蓮実さんの発想の実現を支え、あるいは独自に活動を展開したと思われるが、蓮実氏の最も重要なパートナーであり、また蓮実氏離脱後のURCの中心人物となったのは、これもまた間違いなく、滝口修一だった。

安全バンドのマネージャーでもあった彼なくしては、71年夏の蓮実氏の活動停止でURCの歴史は終わり、URCも、当時雨後のタケノコのごとく各地に暫時存在したロック関係のサークルの単なる一つとして、終わっていただろう。


72年3月、彼は主に県内の高校に散在したロック好きに召集をかけ、「URC再建会議」のようなものを開く。これを書いている管理人も、ほかならぬその会議に顔を出した(うかつにも出してしまった/笑)時から、URCでの活動を開始することになる。

彼のリーダーシップのありようは、蓮実氏のスタイル〜極めて明晰な論理性とストイシズムを持ち、かつそれを自らの文章力や印刷技術を駆使しつつ緻密に実体化させていくスタイルとは、まったくもって対照的なものがあった。

こう書くと、彼のスタイルが、まるで論理的でなくルーズで緻密さもなかったように聞こえるが・・・実際そうなのだった(笑)。だが、蓮実氏のようにはとことん突き詰めることのない、そのある種のおおらかさのようなものが大きな包容力となって、72年以降という時代に、多くの人間をひきつけたのもまた事実である。

当時、カウンターorサブ・カルチャー系の有名無名の人物600人を集めた「ニッポン若者紳士録」(ブロンズ社刊)という本が出て、その中に彼は、矢沢永吉、川久保玲、PANTAなどとともに掲載されている。そんな彼が創り出す様々な分野での人間関係、人脈こそが、「その後」のURCの活動の土台となったのだった。


未発表のあるインタヴューで、PANTAが「ウラワ・ロックンロール・センターというと何を思い出しますか?」と聞かれて、即座にこう答えている。「そりゃもう滝口の顔だよ、あのヒゲ面のさぁ。ジェリー・ガルシアみたいな」・・・まさに彼は「顔」だった。このインタヴューのページで使用している写真はすべて74年前後のものだが、今見ると、ガルシアというより、どこぞやの教祖に似ている気がする・・・(笑)

さて、例によって前書きが長くなった。では本編へどうぞ・・・といっても、実は今回は、URCでの活動の話はほとんど出てこない。URCを設立する前の経緯、背景を語ってもらったところで、すでに1万字を越えてしまったためで、以後の話は後日の更新で何回かに分けてup、ということになる。この調子で行くと、最終的にはかなりのヴォリュームのインタヴューとなるのは必至である。

(高沢)