1974年夏
crazy but usual summer

先日、色々と資料を整理していて気がついたんだが・・・。1974年、つまり31年前の今ごろ、URCはといえば、以下のような活動を行なっていたのだった。

7月22日
四人囃子「一触即発」ツアー・コンサート
(大宮市民会館/主催)

7月27日
魔女コンサート(日比谷野外音楽堂/協力)

8月2日〜11日
ワンステップ・フェスティバル
(郡山・開成山公園陸上競技場/協力)

8月17日
エレクトリック・トラベル・コンサート
(Vol.2 浦和市民会館ホール/主催)

9月15日
田島ヶ原・野外フリー・コンサート
(フェニックスVol.3/主催)

・・・これを書いている今8月1日深夜は、私は郡山の安宿でザコ寝をしていたことになるが、それにしても、なんとタイトなスケジュールだ。9月の「田島ヶ原」の前以外は、各イヴェント間の空きは1週間もない。

500席の会場で開いた「エレクトリック・トラベル」以外は、すべて1、000人以上の集客がめざされたイヴェントである。「協力」のイヴェントも、URCのスタッフが全面的にステージに展開したことに変わりはなく、郡山の「ワンステップ」など、10日間の現地泊り込みだ。

加えて、実は上記の期間中も、銀座「3ポイント」での毎週金曜日のライヴは別途続けているのである(しかも「3ポイント」は、いわゆる「ライヴハウス」ではなかったから、機材類を毎回浦和から車で運んで搬入・搬出せねばならない、手間のかかる企画だったりする)。

主催イヴェントでは、もちろん当日だけでなく、宣伝(=駅頭での連日のチラシまき・パトカーに追われながらの街頭でのポスター貼りなど)・チケット販売なども含めた事前の業務こそが多々あったわけだが、とにかくそれやこれやの活動のすべてを、URCは、中核部隊6、7名、全体でも10名前後のスタッフでこなしていたのだった。

といって、別にまなじりを決してやっていたわけでは全然なく、イラつくことがなかったとは言わないが、くだらないバカ話にまみれてヘラヘラとやっていた印象のほうが強い。いったいそうしたエネルギーはどこから、何ゆえ湧いてきたものだったのか・・・。

もう一点、皆先立つものはどうしていたんだろう?と今さらながら不思議にもなる。はっきり言ってどのイヴェントも収益をあげてはいない。「協力」と言ったって日当が出たわけではない。

こんな調子ではアルバイトをするヒマもないし、確かに皆親元にいたから、最低限帰る所はあったとはいえ、しかしいくら何でも小遣いをもらえる歳じゃなし・・・。

どうやりくりしていたのか、自分自身についてもよく思い出せないものの、レコードや本を買う金などろくろくなく、安い金でたくさん喰うには、ということばかり考えていた気がする。切ない青春である(笑)。

ところで、こんな夏を締めくくった9月15日の「田島ヶ原」は、安全バンド、タージマハル旅行団、ミスタッチ、京都からの「だててんりゅう」に加えて、中山千夏+佐藤允彦グループ(がらん堂)というスペシャルな出演者が登場しているのだが、しかしその開催をURCが決定したのは、開催日の何とわずか2ヵ月前のことなのだった。

議事録によれば(残っているんですよ、そういうものが/笑)、7月6日の段階では、まだやるかやらないか意志統一がなされておらず、ようやく7月15日のミーティングで、「田島ヶ原」開催の決定が下されたことがわかるのだ(したがって「田島ヶ原」を毎年開く、ということが、既定の方針として当初から確定していたわけではないこともわかる)。

だが、市当局に公園の使用許可を申請する所から始めねばならず、あれこれ多大な困難の伴う野外フリー・コンサートを開くには、「2ヵ月前」というのは無謀とも言えるスケジュールである。別にURCが「田島ヶ原」に手慣れていたというわけでは全然ない。この時点では、「田島ヶ原」は、前年(73年)に初めて開いただけ、つまりまだ一回しか経験していないのだから。

7月15日のミーティングでは、当然前掲の一覧にあるコンサートについての、具体的な検討・議論に次から次へと追われている。例えば、7月22日の四人囃子のコンサートの宣伝の追い込みについて、県内の各高校での、登校時正門前でのチラシ配付を決定したり、とか。

だが、既にチラシが不足ぎみだったのか、枚数の配分にこだわり、遅刻者には配るか配らないか、なんて細かなことまで決めているのには笑ってしまった・・・「笑ってしまった」って、議事録によればその指示出してるの私なんですが(笑)。

そんな調子だから、「田島ヶ原」については、そのミーティングでは結局開催を決定しただけで、突っ込んだ話にはならずに時間切れで終わっている。実際の所、この年の「田島ヶ原」は、事前のイヴェントをすべて消化した後、つまり郡山から戻り8月17日の「エレクトリック・トラベル」を終えて、それからやっと本格的に準備を始めることができたのだった。

要するに、実質的には一ヵ月弱の時間しかなかったわけだ。しかし、この項冒頭に列記した出演者によるこの年の「田島ヶ原」が、他の年に比して遜色があった記憶はない。もちろん何のトラブルも起きていない。そして、この年に「田島ヶ原」を敢行し、それをつつがなく終えたことによって、URCは、以後の『「田島ヶ原」を継続して毎年開く』という方針を確定することになったのだった。

・・・さて、たまたま74年の夏期の資料が目に触れたのでこうして書いてきたが、では、74年が特に多忙な年で大変だったのかといえば、そういうふうには記憶されていないのである。

少なくとも70年代のあいだは、毎年似たり寄ったりの活動状況だったろう。翌75年の「田島ヶ原」を、わざわざ2日間の拡大企画にしていることからもうかがえるように、URCはこのころ、疲れるということ、休むということを知らなかった気がする。

ちなみに、その75年夏、かの裕也さんは、安全バンドも出演した後楽園球場での一大イヴェント「サマーロック・フェスティヴァル」を7月19日に開き(主催は文化放送)、それから1ヵ月たたぬ8月7日に、同会場でさらに大きなイヴェント「ワールドロック・フェスティヴァル」を開いている。

並べて語るのは僭越ではあるが、これも極めてタイトな日程で、70年代中盤、「日本のロック」の夏は、あちらもこちらも何とも熱かったものだ、と改めて感じ入る2005年の夏は暑いかぬるいか涼しいか。

(おわり)

05.8.2記