URC HP公開への日々(1)
(その1)

浦和という地を拠点に、ただひたすらやりたいことを気のおもむくままにやってきたURCではあるが、とはいえ世の中に対して少しは意味があったのか、私は70年代から何度となくその活動や歴史についての取材を受けてきた。マスメディアからミニコミまで、その相手は様々だが、しかし率直に言って、こちらの話を的確にまとめてもらえた記憶はほとんどない。

良くある行き違いの元は、「ヒッピー(かぶれ)の夢物語」的な予断が先方にあるがゆえという気がする。そりゃヒッピーやあるいはウッドストック神話に何の影響も受けなかったというつもりもないが、むしろその危うさ、脆さのほうが気になったし、だから例えばピース・サインだのハトの足だのに浮かれる感覚は、我々の中では極めて希薄だった。

これに関連する話について、実に興味深いエピソードを雑誌で読んだことがある。京都在住だったある著名ミュージシャンの回想なのだが、当時、道で長髪・ジーパンの人間に出会うと、知り合いでもないのにピース・サインを交わし合ったというのである。

申し訳ないが、私はそれを読んだ時、心の底からゾッとした(笑)。まぁ京都の街には独特の雰囲気があったのかも知れないが、そういうわけのわからん連帯意識は、我々にとっては最も忌むべきものとしてあった。

だいたい、関わったミュージシャン・サイドについてはいざしらず、これは創立者蓮実さんへのインタヴューにもあるように(HISTORY参照)、発足時からURC内部はまったくのNO DRUG、酒もろくに飲まない・飲めない健全空間。コンサート終了後も、ジュースにする?コーヒー?のソフト・ドリンク大会、全然ヒッピーじゃない...どころかまるでロックっぽくすらなく、ついでに言うと「フリーセックス」というのとも無縁であった。それだけは遺憾である(笑)。

我々は、活動としてはフリーセックス否フリー・コンサートをメインにしていたから、ヒッピー志向という予断も無理からぬとは思うが、だが特にマスメディアで記事や番組作りに追われている方々が、手ごろなネタとして期待する「ウッドストックに憧れて夢を追い続けた青春群像」みたいな実態は、申し訳ないがあんまりないのである。

で、結果としては常に「話さなけりゃよかった」と思って終わることばかりだった。まぁこちらの表現力不足と言われてしまえばそれまでだが、やめときゃよかったとまったく思わずに終えることができたのは、80年代のことになるが、NHKラジオ第一放送のたしか「夕べのひととき」とかいう全国向けの番組に出た時だけだった。なにしろそれは生放送で、何の編集もなく当方の発言がそのまま流れたのだから、当然ではある。

さてここからが本題なのだが、そんな経緯もあって、私はかねてから、取材の申し込みがあったら「これ読んでください、そこに全部書いてありますから」と言えるような文章、本を、自分自身の手でまとめようと考えていた。

もっとも元々の動機・発端はそんなところにはなく、思うところあって不特定多数に呼びかけるイヴェント活動の休止を決めた80年代末期、URCの来し方の総括の必要性を感じた時に遡るのだが、当方の能力にとっては質量ともに過大なその作業に着手することはなかなかできず、気がつけばあっという間に15年ほどの時が(トホホ)流れてしまった。

その時の構想では本+カセット・テープの形だったが、誰もが当たり前にパソコンとネットを駆使する、その頃は夢にも思わなかった時代となり、その作業はこうしてwebsiteという形でようやく一歩を踏み出すことになった。

最終的にどんな形にまとめるのか、明確な構想があるわけではないが、音声や画像を自由に併用できるテクノロジーは、URCというものの表現にとっては願ってもないものだ。とりかかるのが遅れてよかったと思わないでもない今日この頃。

つづく

05.3.24記