*1971年8月28日(sat)
フェニックス・ロック・フェスティヴァル

第一期URCの集大成ともいうべき野外フリー・コンサート。会場の駒場サッカー場は、隣接する駒場スタジアム(浦和レッズのHOME)とは別もので、金網フェンスとゴールを設置しただけの、芝生もない土のグラウンドだった。

真夏の炎天下、集まった700人前後の聴衆は、そのままグラウンドに座り込んで聴いていた。まだURCに参加していなかった管理人もその中の一人で、この時高3、客席右寄りの後方にいてヤジを飛ばしたりしていた(笑)

ステージ〜といっても高さ10センチもないぐらいの木の板が敷かれていただけだったが〜左手にはURC関係者が出した飲食物などの売店が2、3出ていた。けっこう繁盛していたと思う。当然売上げはこのフリー・コンサートの費用に回ったのだろう。

この時、私は安全バンドや四人囃子を初めて観ているはずなのだが、正直言って、彼らに限らず出演した個々のバンドについては、不思議なほど何も記憶が残っていない。ただ退屈した記憶はなく、集まった皆で出演バンドや主催者側を温かく見守る、という感じの、えも言われぬなごやかな雰囲気を楽しんでいた。

唯一、出演者ではっきり覚えているのは、最後に登場したニュー・ダイナマイツである。

実はこの日最後にトリとして登場するのは、前年の「玉蔵院」に引き続きブルース・クリエイションのはずだった。しかし、この日は彼らは出演していない。コンサートの進行が遅れたため、一つ前のニュー・ダイナマイツが終わった時には、既に当局の許可を受けた夜7時が過ぎてしまっていて、演奏できなかったのである。

まだ深夜というわけでもなし、もう少し時代が下れば事態は違って、30分ぐらいは延長して演奏ができたかもしれないが、しかしロックがまるで「異物」として存在していた時代である。いきなり市街地に響いたサウンドには、午後1時のコンサート開始当初より近隣からの苦情が殺到していたため、それは不可能だった。

ニュー・ダイナマイツは、日も暮れて暗くなり(街灯ないしはグラウンド用の照明がついていただけだったと思う)、途中でコンサートが打ち切られる旨の主催者側のMCや、苦情を受けて出動した警官の姿に、会場が少しざわついている中へ登場した。

曲目を覚えているわけではないが、ギターの音やヴォーカル(瀬川洋)が、この日いちばんガン!と客席に届いてきた記憶がある。客を引き込むパフォーマンスということでも、一日の長があったように思う。確かラストにハード・ブギ・アレンジの「Get Back」が演奏され、大いに盛上がったところでこのイヴェントは終わる。

ブルース・クリエイションの演奏がなかったことへの不満で、このイヴェントがネガティヴな雰囲気で終ったという印象はない。それはその盛上りに救われた所も大だったろう。

そして個人的に何よりも最も明確に覚えているのは、住んでいる家から歩いて来れるような、自分が住み暮らしている街の一角に、白昼夢のようにこんなロック・イヴェントが出現したことへの昂揚感である。それは、日比谷野音にせよ何にせよ、都内で開かれるロック・コンサートへ行った時とは決定的に何かが違う、特別の昂揚感だった。

その体験が幸だったのか不幸だったのか、今となっては複雑な所もあるが(笑)、とにかくこのイヴェントのほぼ半年後、気がつけば私はURCにスタッフとして参加していたのだった。

<memo>

ポスター最下段にある「演奏堂」は、浦和駅西口にあった県内最大のレコード屋で、北浦和駅東口にも支店があった。だが80年代のレンタル・レコード店の登場で、どちらも閉店してしまった。当時からあるレコード店としては、北浦和の「マルイ・ミュージック」のみが、数年前に新装も果たし今でも健在である。両店とも、よくコンサートのチケットを置いてもらったり、ポスターを貼ってもらったりご協力いただいた。

余談だがその「演奏堂」で、ロックのレコードがどうしても欲しくて万引きを重ねた、S氏という人物を知っている。もちろんCDじゃありません、でかいLP盤ですよ。何でもシャツだかセーターの下に突っ込んで犯行に及んだとか。それほどロックに熱い思いがあったというべきか、そんなリスクを犯すほど金がなかったというべきか・・・(ダメですよ、万引きは)。